説教要旨「小羊に歌おう」 |
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2018年 11月 29日
2018年11月18日 めぐみ教会礼拝説教
「小羊に歌おう」 荒瀬牧彦牧師 ヨハネの黙示録5章1-14節 ヨハネは、玉座に座っておられる方の手に巻物があるのに気が付いた。しかしその巻物は七つの封印で封じられている。これが開封されなければ、神の救済計画は実行されず、罪と悪が猛威をふるい続け、信徒たちの苦しみは続く。「封印を解いて、この巻物を開くにふさわしい者はだれか」と天使が叫ぶが、しかし、誰もいないのである。 ヨハネは激しく泣いた。彼と彼の教会が直面していた激しい迫害の現実があったからだろう。巻物を開けないのなら何の希望があるだろう。この悲しさ、この絶望感。 かつて、ペトロが激しく泣いた場面を思い出す。彼は、主イエスへの忠誠をあれほど固く誓っていたのに、いざ主イエスが捕えられたら、怖くなって、「そんな人は知らない」と三度も主を否んでしまったのだ。「鶏が鳴く前に三度私を知らないというであろう」という主の言葉通りだった。ペトロはあまりにも情けない自分自身に泣くしかなかった。 聖書には、主イエスが泣いたことも書いてある。ラザロの葬られている墓へ行った時のことだ。あの時イエスは「心に憤りを覚え」、「涙を流された」。死を前にして打ちのめされている無力な人間の現実に、激しく感情を揺さぶられて泣いたのである。 泣くというのは大事なことではないか。我々は泣かなくなったら、本当の意味で生きているとは言えないのではないか。人は神経が麻痺し、無関心になった時、泣かなくなる。あきらめ、自分の殻に閉じこもり、心を石のようにした時、人は泣かなくなるのだ。 主イエスは言われた、「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。イエス様は泣いている人を放っておかない。泣く人の涙は重大事なのだ。 泣いているヨハネは声を聞く。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」。ライオンと若芽は、ダビデの家系から出るメシアの象徴である。強い者、勝利者が獅子と表現されるのはわかりやすい。ところが、5章の描く天上の光景においては思わぬ展開が待っている。ヨハネが見たのは、獅子ではなく「屠られたような小羊が立っている」姿だった。獅子と全く対照的に、攻撃性を持たない弱い動物である羊。それも「屠られたような」小羊である。しかしその小羊こそ封印を開くことのできになる唯一の方であり、「力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方」なのである。 「屠られた」ことは悪への敗北ではなく、神の目的を完遂したということである。「屠られたこと」に勝利があったのだ。だからこの小羊は「立っている」。この逆説が表しているのは、神の愛である。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。 天上の礼拝で、四つの生き物と24人の長老たちは小羊をたたえて賛美をうたった。それは「新しい歌」である。なぜなら、この世界に小羊が新しいことを起こしてくださるからである。それは、ダビデの王国の時代のような軍事力・経済力の強いイスラエルの復興ではない。ローマ帝国に軍事的・政治的に対抗する大国を作ることでもない。民族や国や言葉の壁を越え、神に招き寄せられた人たちが集い、神と小羊を中心にして生きる新しい人間の共同体である。そこでは、生きることの辛さ、人間の罪と社会の堕落に、「泣いていた」人たちが主に慰められ、愛され、そして神に仕える者としての王や祭司という役割を与えられるのである。 小さな者たちが、小さな者たちこそが、小羊キリストの名のゆえに、奉仕を行うのである。新しい世界をもたらしてくださる小羊に、新しい歌をうたおう。 ▲
by boxy-diary
| 2018-11-29 17:34
| 礼拝説教の要旨
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2018年 11月 18日
2018年11月18日 めぐみ教会礼拝説教
「天上の光景」 荒瀬牧彦牧師 ヨハネの黙示録4章1-11節 ラッパのような声が響いた。「ここへ上ってきなさい。この後必ず起こることをあなたに示そう」。ヨハネは天の上の光景を見ることを許されたのだ。 何が見えたのか? 彼の見た天上の光景において最も重要な点は、四つの生き物と24人の長老が、玉座にいます方を、すなわち栄光に満ちた神をほめたたえていたということである。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」と彼らは全身全霊をもって賛美をささげていたのである。 当時のローマ世界において、玉座といって連想されるものといえば、ローマ皇帝の座すところである。ローマ帝国がかつての力を次第に失いつつある中、皇帝は自らを神格化することでその権威の確立と安定をはかり、求心力としようとしていた。そのような世界でうまく生き延びていこうとする者たちは、権力に媚び、へつらうのである。これは今も同じである。 しかし、天の光景は、真実を明らかにしている。そして人間が本当に人間らしく生きようとする時になすべきことを明らかにしている。真に礼拝すべきは、天の玉座におられる方である。すべてを創造し、そのいのちを保っておられる方である。人はその方に礼拝してこそ、この地上の諸々の支配力からの自由を確保し、奴隷になることなく人間の尊厳を保って生きることができるのだ。 C・マルクシースの著した『天を仰ぎ、地を歩む――ローマ帝国におけるキリスト教世界の構造』という本のあとがきで、訳者の土井健司氏がこう書いている。「本書においてマルクシース氏は古代におけるキリスト者の有り様を『(二つの)世界のはざまを歩む』と捉え、これを本書の表題にしています。ただ、このままでは日本語としてよく分からないので、原意を汲んで『天を仰ぎ、地を歩む』としました。二つの世界とは永遠なる天の国とこの地上の世界のことだからです。『はざまを歩む』とは、天に焦がれるあまりこの世を否定してしまったり、反対に世事に没頭することで天を忘却してしまうのではなく、一方に偏らずこの二つの世界の間を生きる姿を表わしています。」 二つの世界の間を生きる―――そう、黙示録の示す天上の光景は、はざまを生きるキリストの旅人たちを励ますビジョンなのだ。古代のキリスト者がそうであったように、今を生きるわたしたちも、「はざまを歩む」よう召されている。 わたしたちは地上で、圧力をかけられたり、消滅の危機に立たされたり、これからも苦労をしながら礼拝をし続けていくだろう。しかしわたしたちの礼拝は、ここだけでやっているのではない。天上の礼拝につながれ、それに吊り上げられているのである。天上の礼拝者と同じ賛美を歌っているのである。同じ祈りをささげているのである。同じ玉座におられる方に守られているのである。天上の礼拝につながる我々は、地に足をつけて、この地でしっかりと生きる。天から励まされ、力を与えられるからこそ、この地で(神のような顔をした諸力の支配に屈せず)まことの神に仕えていくことができるのだ。 ▲
by boxy-diary
| 2018-11-18 17:24
| 礼拝説教の要旨
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2018年 11月 13日
今日は午前10時20分から「パンの会」があります。 詩編14編を学びます。 今その準備をしているところです。 ネットのニュースで、またも心曇らせるニュースが。 時事通信が今朝伝えたものです。 【エルサレム時事】イスラエル軍は12日、パレスチナ自治区ガザ各地の70カ所以上に空爆や砲撃を行い、ガザの保健省によると少なくとも3人が殺害された。 両方が対等にやり合っている、と思ってしまったら事実とは異なります。大人と子供、大鷲と小雀ぐらいの圧倒的な力の差がある間での軍事衝突です。 国際社会は――イスラエルの後ろ盾アメリカに巻かれてしまわないで――イスラエルの非道を非難すべきです。もちろん日本も。 人の罪の執拗さを思いつつ、聖書を読んでいます。 主は天から人の子らを見渡し、探される。 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 善を行う者はいない。ひとりもいない。 悪を行う者は知っているはずではないか。 パンを食らうかのようにわたしの民を食らい 主を呼び求めることをしない者よ。 そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。 神は義人(ツァディク)の群れにいます。 貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても 主は必ず、避けどころとなってくださる。 (詩編14編より) 貧しい人(困窮者)の側に立つ神が、今砲火の中で苦しんでいる人たちの盾となってくださいますように。 主よ、あわれみたまえ。 平和を与え給え。 あなたの民を、平和を創り出す者たちとしたまえ。 ************* ▲
by boxy-diary
| 2018-11-13 09:34
| 今この世界で
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