2017年11月5日 めぐみ教会礼拝説教
「カインは顔を伏せた」 荒瀬牧彦牧師
創世記4章1-10節
なんということだ、なぜか弟だけが神に祝福されている!
牧羊をしている弟のアベル。その名がヘベル(息、虚しさ)に由来する、自分より力が劣っていて、影の薄い存在であるはずの弟が、今は自分より成功しているではないか。同じように主への捧げ物をしたはずなのに!
怒る兄の名カインは、母が出産の時に感動して「わたしは主によって男子を得た!」と叫んだ「得た(カーナー)」に由来する。喜びと力強さが込められた名は、兄が弟より恵まれた人生を送ってきたことを暗示するのだろう。それが今や、神のアベル祝福という行為によってひっくり返されたのだ。
カインは「激しく怒って顔を伏せた」。今までは自分が優越していて当然と思っていたが、立場が逆転したらその不公平は許せない。弟を妬み、神に激怒するカインの気持ちはよくわかる。「妬み」は我々に御馴染みの感情だ。
ところが面白いことに、主はその時カインに声をかける。主はアベルにだけ目を留めたというけれど、まなざしはカインの姿を追っていたのだ。顔を伏せているカインを主は心配する。顔を伏せるとは対話を拒否し、他者との感情の交流も切って内に籠ることだからだ。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」
カインよ、なぜ君はあの時顔を伏せたままだったのか。顔を上げて神様に自分の思いをぶつければよかったではないか。率直に「悔しいんです」と訴えれば良かったではないか。腹の底からの祈りを主は待っておられたのではないか。
しかし、彼は顔を伏せたままだった。「罪が戸口で待ち伏せており、お前を求める」と主が言われた通りだった。野原に誘い出しての弟殺しという最悪の道に彼は進んでしまった。
この兄弟殺害の物語を、「人を妬んではいけない」といった道徳の教えに収めてしまうことはできないだろう。<体が弱かった弟に主が特別なご愛顧を与えてくださったのだ。妬むむのでなく、一緒に喜びなさい。> ――そんなことは理屈ではわかっている。でも感情が受け入れられないのだ。抑えられないマグマが我がうちにある。そういう自分であることに気づかせてくれるのがこの人間ドラマである。
もう一つ大事なことがある。戸口で待ち伏せている罪を支配するどころか、完全支配されてしまうこの惨めな自分を、主は心配し、追い続けてくださるということだ。「顔をあげなさい」と声をかけてくださる。しかも、その忠告に従わず、人の命を奪い、嘘をつき、遂にはさすらいの罪人となってしまう自分を、なお心にかけ、身を守るための「しるし」(15節)を自分に付けてくださる。わたしの罪は本当に深いが、神の愛はそれよりさらに深い。罪は強力だが、神の憐みの力はそれよりなお強い。
イエス様が「放蕩息子の譬え」(ルカ15章)を、放蕩の次男とそれを迎え入れた父の二人の話ではなく、帰って来た弟と迎え入れた父を赦せない長男を含めた三人の話にしたのは、もしかしたらカインとアベルの物語と関係しているのかもしれない。放蕩の弟とアベルでは随分と違うが、しかし兄と父の関係は共通している。どちらも父/神の弟への愛を喜べない。なぜだろう。<自分は認められないのか、満たしてもらえないのか>という不安があるからではないか。感情が叫ぶのだ。<この私はどうなるのだ!>と。
大丈夫だよ。あの偉大な御方は、あなたのことも愛している。小さき弟を心配し、どこまでも守ろうとする憐みの主は、何があろうとあなたを愛し続ける方なのだから。
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