2009年 03月 02日
ユダの後悔 |
2月1日説教要旨
「ユダの後悔」
マタイ27章1-14節
ユダは頭の回転がいい人で、彼なりの政治的理想と計画があったようだ。それゆえに主イエスに失望して、主を祭司長たちに売り渡すという愚挙に出てしまう。しかし主に有罪が下された後、彼は「罪のない人の血を売り渡し、罪を犯した」ことに気づく。彼は「後悔」したのだ。では後悔した後にどうしたか?彼は銀30枚を返しに行く。それで過去を取り消そうとしたのだ。しかし祭司長たちは「お前の問題だ」とつき返す。彼らにはユダの悩みを解決することなどできないのだ。ババヌキのごとくイエス処刑の責任をなすりつけあっている指導者に過ぎないのだから。それに、もし彼らが銀貨を受け取ったとしても、それでユダの問題が解決するわけではない。
拒絶されたユダは神殿に行って銀貨を投げ込む。売買契約が不調になった時に神殿にお金を供託する、という制度が頭にあったのだろうという聖書学者の指摘。なるほど、ユダはあくまでも自分は悪事の金を受け取っていないという法的な証明をしたかったのか。しかし、主イエスが見抜かれたように、神殿はもはや「祈りの家」ではなく、人間の欲得が渦巻く「強盗の巣窟」と化していた。人の罪を贖うような場所ではなかったのだ。そこにお金を投げ込んでも何にもならない。ユダは、行っても無意味な場所にばかり行き、自分はもうだめだと自分で決め、自害してしまった・・・なんという悲劇だろう。
私たち誰もが後悔をする。後悔は避け難いものだろう。問題は、後悔から先どこへ進むかである。ユダはどこへ行くべきだったのか。主イエスに立ち戻るべきだったのだ!いや、すぐ立ち戻れはしないだろう。しかし立ち戻れる時を待つべきでった。他の弟子たちも主を裏切った。その彼らも自力で立ち戻れたのではない。復活されたキリストが彼らのもとに来てくださったではないか。ユダは、己の情けなさを泣きながらでも待つべきだったのだ。
「後悔」は「悔い改め」へと至るべきもの。後悔だけの人は、嘆きはするがそこにとどまり、自分は前と変わらない。変わろうとしない。自分の枠組みはそのままで、過去を取り消そうとするだけ。悔い改めとは方向転換。神へと向かい、根本的に新しくされること。取り消したい過去は変わらない。でもそれを無理に消すのではなく、取り消せぬものを抱えたまま神に立ち帰ること。そう、イエス様は「神の国は近づいた。後悔せよ」と言ったのでなく「悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたのだ。
福音書記者マタイが、放り込まれた銀貨で畑を買って外国人の墓地にしたことを、エレミヤ書32章の成就とみたのは興味深い。エレミヤはバビロニアにまもなく占領されようとしている土地を親戚から銀で買った。エレミヤは、神がその土地を必ず取り戻して下さるという約束のゆえにそれを買い、その権利証書を希望のしるしとしたのである。
イエスは殺される。弟子たちの過ちは取り返しがつかない。しかし、それが終わりではない。その先があったのだ。主はよみがえられて、裏切った弟子たちのもとに来てくださった。血の畑が、命の畑となる時がくる。悔い改める者に、主は再出発の時を備えてくださる。必ず、である。だから自分で自分をあきらめてはならない。後悔から悔い改めへ。
「ユダの後悔」
マタイ27章1-14節
ユダは頭の回転がいい人で、彼なりの政治的理想と計画があったようだ。それゆえに主イエスに失望して、主を祭司長たちに売り渡すという愚挙に出てしまう。しかし主に有罪が下された後、彼は「罪のない人の血を売り渡し、罪を犯した」ことに気づく。彼は「後悔」したのだ。では後悔した後にどうしたか?彼は銀30枚を返しに行く。それで過去を取り消そうとしたのだ。しかし祭司長たちは「お前の問題だ」とつき返す。彼らにはユダの悩みを解決することなどできないのだ。ババヌキのごとくイエス処刑の責任をなすりつけあっている指導者に過ぎないのだから。それに、もし彼らが銀貨を受け取ったとしても、それでユダの問題が解決するわけではない。
拒絶されたユダは神殿に行って銀貨を投げ込む。売買契約が不調になった時に神殿にお金を供託する、という制度が頭にあったのだろうという聖書学者の指摘。なるほど、ユダはあくまでも自分は悪事の金を受け取っていないという法的な証明をしたかったのか。しかし、主イエスが見抜かれたように、神殿はもはや「祈りの家」ではなく、人間の欲得が渦巻く「強盗の巣窟」と化していた。人の罪を贖うような場所ではなかったのだ。そこにお金を投げ込んでも何にもならない。ユダは、行っても無意味な場所にばかり行き、自分はもうだめだと自分で決め、自害してしまった・・・なんという悲劇だろう。
私たち誰もが後悔をする。後悔は避け難いものだろう。問題は、後悔から先どこへ進むかである。ユダはどこへ行くべきだったのか。主イエスに立ち戻るべきだったのだ!いや、すぐ立ち戻れはしないだろう。しかし立ち戻れる時を待つべきでった。他の弟子たちも主を裏切った。その彼らも自力で立ち戻れたのではない。復活されたキリストが彼らのもとに来てくださったではないか。ユダは、己の情けなさを泣きながらでも待つべきだったのだ。
「後悔」は「悔い改め」へと至るべきもの。後悔だけの人は、嘆きはするがそこにとどまり、自分は前と変わらない。変わろうとしない。自分の枠組みはそのままで、過去を取り消そうとするだけ。悔い改めとは方向転換。神へと向かい、根本的に新しくされること。取り消したい過去は変わらない。でもそれを無理に消すのではなく、取り消せぬものを抱えたまま神に立ち帰ること。そう、イエス様は「神の国は近づいた。後悔せよ」と言ったのでなく「悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたのだ。
福音書記者マタイが、放り込まれた銀貨で畑を買って外国人の墓地にしたことを、エレミヤ書32章の成就とみたのは興味深い。エレミヤはバビロニアにまもなく占領されようとしている土地を親戚から銀で買った。エレミヤは、神がその土地を必ず取り戻して下さるという約束のゆえにそれを買い、その権利証書を希望のしるしとしたのである。
イエスは殺される。弟子たちの過ちは取り返しがつかない。しかし、それが終わりではない。その先があったのだ。主はよみがえられて、裏切った弟子たちのもとに来てくださった。血の畑が、命の畑となる時がくる。悔い改める者に、主は再出発の時を備えてくださる。必ず、である。だから自分で自分をあきらめてはならない。後悔から悔い改めへ。
by boxy-diary
| 2009-03-02 21:13
| 礼拝説教の要旨