2009年 02月 04日
1月18日の説教要旨 |
教会のウェブサイトに、礼拝説教の要旨を掲載するコーナーがあって、以前は結構こまめにアップしていたのですが、もう長いことやっておりません・・・・(-_-;)
原稿そのものは、週報に「先週の説教」として約1400字ほどにまとめて掲載しているので、週報を作った時点でもうあるのです。しかし、そこから先の作業・・・ホームページビルダーを起動し、ページの体裁を整え、インデックスからのリンクをはり、転送する・・・をするのが面倒くさいのですね。
今、パソコンで作業をしている時、ふと、I教会のU先生のようにブログに随時、コピー&ペーストでのっけてったらいいかな、と思いました。
ためしに一つやってみましょう。
1月18日の説教が、今年のめぐみ教会の主題である「御言葉を深く掘ろう しゅイエスの周りに座って」に関係しているので、まずはこれを載せてみます。
2009年1月18日 「主イエスの周りに座って」
申命記30・11-14
マタイ12・22-32、46-50
この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
・・・
ことばのうちがわへはいりこみたい
八木重吉はこう詩にうたいました。「うちがわ」、そしてその対語である「そとがわ」ということを考えながら聖書を読んでみましょう。
「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」が連れてこられました。宗教指導者たちは、こう描写されるような人を相手にしませんでした。しかしイエスは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(20節)御方です。この人に向き合い、真剣に接し、彼を縛りつけ硬直させていた力から彼を解き放ちました。群衆はそれを見て驚きます。しかし驚くのを拒む人たちもいたのです。そんなことで驚いてたまるかとばかり、ファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」とイエスの業を説明します。
主イエスはそんな非難に対し、「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立っていくだろうか」と反論しました。イエスは現場の人だったんだな、と思います。人が苦しんでいる現場にいて、その苦しみの内側にはいって現実の厳しさを肌で知っていたのです。悪の力は内輪もめで崩壊してくれるような生易しいものじゃない!それに対し、ファリサイ派の人たちは現場ではなく会議室にいて、外から表面を見て分析しているにすぎません。
主は宣言されます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。イエスの言葉と業の内側に入った人は、「神の国が既に来た」という言葉に「アーメン」と応えることができます。しかし外側に留まる人はその真実を知ることができず、自らに裁きを招くことになります(32節)。
ベルゼブル騒動があった後、家族が主イエスを呼びに来ました。しかし母と兄弟たちは、主が人々に語っておられる家の中へと入ってきませんでした。イエスを連れ戻そうと、「外に」立ち続けるのでした。
「私の母とは誰か、兄弟とは誰か」というイエスの言葉は、家族を突き放す冷たい言葉のように聞えますが、しかし、それは招きであったのだと思います。「さあ見てください。ここに私の言葉を真剣に聴いている人々がいます。恵みの言葉を聞き、それに従おうとしているのです。神の国がここに来ています。さあここに入って一緒に聞いてください。そうすればわかります」。
「当事者」という言葉を思い浮かべています。私が関係している某団体でトラブルが起き、「まずは当事者で集まって見解を整理し、その後に全体で話し合おう」という案が出ました。一理あると思いつつ、私には「当事者」がどこまでの人を指すのかわからず質問しました。その時の問いが、聖書を読んでいる私の心にそのままもどってきました。当事者ってだれですか?私は当事者でしょうか?
イエスはいつも現場にいて、当事者になってくださった御方です。「私はその場にいなかったのでわからない。何とも言えない」といって逃げず、非難を恐れないで当事者となるのです。同時に、出会った一人一人にも当事者であることを求めるのです。 「神の国はあなたたちのところに」。そう「あなた」が当事者なのです。さあ中に入っておいで。神の恵みの出来事の当事者になりなさい。
「難しすぎるものでも、遠く及ばぬものもでもない。・・・天にあるものでもなく・・・海のかなたにあるものでもない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」申命記30章11-14節
原稿そのものは、週報に「先週の説教」として約1400字ほどにまとめて掲載しているので、週報を作った時点でもうあるのです。しかし、そこから先の作業・・・ホームページビルダーを起動し、ページの体裁を整え、インデックスからのリンクをはり、転送する・・・をするのが面倒くさいのですね。
今、パソコンで作業をしている時、ふと、I教会のU先生のようにブログに随時、コピー&ペーストでのっけてったらいいかな、と思いました。
ためしに一つやってみましょう。
1月18日の説教が、今年のめぐみ教会の主題である「御言葉を深く掘ろう しゅイエスの周りに座って」に関係しているので、まずはこれを載せてみます。
2009年1月18日 「主イエスの周りに座って」
申命記30・11-14
マタイ12・22-32、46-50
この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
・・・
ことばのうちがわへはいりこみたい
八木重吉はこう詩にうたいました。「うちがわ」、そしてその対語である「そとがわ」ということを考えながら聖書を読んでみましょう。
「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」が連れてこられました。宗教指導者たちは、こう描写されるような人を相手にしませんでした。しかしイエスは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(20節)御方です。この人に向き合い、真剣に接し、彼を縛りつけ硬直させていた力から彼を解き放ちました。群衆はそれを見て驚きます。しかし驚くのを拒む人たちもいたのです。そんなことで驚いてたまるかとばかり、ファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」とイエスの業を説明します。
主イエスはそんな非難に対し、「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立っていくだろうか」と反論しました。イエスは現場の人だったんだな、と思います。人が苦しんでいる現場にいて、その苦しみの内側にはいって現実の厳しさを肌で知っていたのです。悪の力は内輪もめで崩壊してくれるような生易しいものじゃない!それに対し、ファリサイ派の人たちは現場ではなく会議室にいて、外から表面を見て分析しているにすぎません。
主は宣言されます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。イエスの言葉と業の内側に入った人は、「神の国が既に来た」という言葉に「アーメン」と応えることができます。しかし外側に留まる人はその真実を知ることができず、自らに裁きを招くことになります(32節)。
ベルゼブル騒動があった後、家族が主イエスを呼びに来ました。しかし母と兄弟たちは、主が人々に語っておられる家の中へと入ってきませんでした。イエスを連れ戻そうと、「外に」立ち続けるのでした。
「私の母とは誰か、兄弟とは誰か」というイエスの言葉は、家族を突き放す冷たい言葉のように聞えますが、しかし、それは招きであったのだと思います。「さあ見てください。ここに私の言葉を真剣に聴いている人々がいます。恵みの言葉を聞き、それに従おうとしているのです。神の国がここに来ています。さあここに入って一緒に聞いてください。そうすればわかります」。
「当事者」という言葉を思い浮かべています。私が関係している某団体でトラブルが起き、「まずは当事者で集まって見解を整理し、その後に全体で話し合おう」という案が出ました。一理あると思いつつ、私には「当事者」がどこまでの人を指すのかわからず質問しました。その時の問いが、聖書を読んでいる私の心にそのままもどってきました。当事者ってだれですか?私は当事者でしょうか?
イエスはいつも現場にいて、当事者になってくださった御方です。「私はその場にいなかったのでわからない。何とも言えない」といって逃げず、非難を恐れないで当事者となるのです。同時に、出会った一人一人にも当事者であることを求めるのです。 「神の国はあなたたちのところに」。そう「あなた」が当事者なのです。さあ中に入っておいで。神の恵みの出来事の当事者になりなさい。
「難しすぎるものでも、遠く及ばぬものもでもない。・・・天にあるものでもなく・・・海のかなたにあるものでもない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」申命記30章11-14節
by boxy-diary
| 2009-02-04 17:01
| 礼拝説教の要旨