2017年 08月 03日
説教要旨「呪縛からの解放」 |
2017年7月23日 めぐみ教会礼拝説教
「呪縛からの解放」 荒瀬牧彦牧師
使徒言行録19章13-20節
パウロは傑出した伝道者であったが、彼の書いた手紙には「私はこんな奇跡を行い、力強い業で人をこれだけ集めた」的な記述はなく、むしろ、批判されたり問題を抱え込んだりで、苦労している姿が目に浮かんでくる。しかし使徒言行録の後半では、<奇跡を行うヒーロー>的なパウロ描写が多い。パウロ自身にはその気がなくとも、周囲ではカリスマ的伝道者の「力ある業」を求めるニーズがあったのかもしれない。「十字架につけられたキリスト」を語る言葉よりも、「奇跡を行うパウロ」を人々は好むからである。
「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」(19:12)などという記事を読むと困惑してしまう。もし本当にパウロの持ち物にそんな神通力(?)があったとしたら、パウロは嬉しかっただろうか。人々がそんなものに夢中になっているとしたら、パウロにとっては非常に不本意だったろう。
実際、それがもとでゴタゴタが起きたのである。「各地を巡り歩いているユダヤ人の祈祷師たち」が、えらく効き目の強い「イエス」の名のことを聞きつけ、イエスのことなどまったく何も知らないまま、「試みに」その名を唱えるという騒動になっていた。
面白いことに、そういうインチキをした祭司長スケワの息子7人は、悪霊に言い返されてしまう。「イエスは知っている。パウロはよく知っている。しかし、お前たちは誰だ」と。福音書を読んでいるとわかるが、悪霊というのは本物と偽物、神から来たものとそうでないものを見分けるのである。悪霊は神聖なものに敏感だ。ただ口先でイエスの名を語っているものには何の力もない。悪霊につかれている男はスケワの息子たちにとびかかり、七人は裸にされて家から逃げ出すーーーというコメディ調活劇のような場面となる。
悪霊の大暴れは、パウロの伝えるイエス・キリストの福音が本物であることを証しすることになった。多くの人が信仰を得た。「魔術を行っていた多くの者」もその中におり、彼らは魔術の書物をもってきて焼き捨てた。それは非常に高価な書で銀貨5万枚分だったそうだ。(ところで、誰がその金額を計算したのだろう?ユダが、マリアの注いだ香油を「300デナリオンにもなるのに」と呟いたのを思い出す。そういうことが気になってしかたがない人たちがいるのだ。お金の魔力から解放されるというのは容易なことではない。)
我々にとってこのような「魔術師」撃退の話は、神話の中の冒険譚にしか聞こえないかもしれない。しかしよく考えてみよ。古代の人々にとって魔術というのは、日常生活の中に入り込み人々を支配している問題であり、容易に抗えない力だったのだ。
使徒言行録には、今日の箇所を含めて四つもの「魔術師」問題が出てくる。そこかしこで人々がこれに縛られていたということであろう。イエス・キリストの福音は、その束縛から人間を解放するものであった。イエスは、怒りの神の力で人間を恐れさせて、何でも言うことを聞くよう縛るためにこの世に来られたのではない。イエスは、人を愛する神の愛によって、縛られている人間を解き放つために世に来られたのだ。
では、現代の我々にとって、「魔術師」とはなんだろう。人間を束縛してがんじがらめにしているものはなんだろう。我々はそのような力に敏感でありたい。それを見抜く目を持ち、イエスの名によって「ノー!」と言う勇気をもっていたい。何より、神はキリストにあって必ず人を呪縛から解放してくださると信じ、その力によって生きるものでありたい。もう一度言う。イエスは神の愛によって、縛られている人間を解き放つために来られたのだ。
「呪縛からの解放」 荒瀬牧彦牧師
使徒言行録19章13-20節
パウロは傑出した伝道者であったが、彼の書いた手紙には「私はこんな奇跡を行い、力強い業で人をこれだけ集めた」的な記述はなく、むしろ、批判されたり問題を抱え込んだりで、苦労している姿が目に浮かんでくる。しかし使徒言行録の後半では、<奇跡を行うヒーロー>的なパウロ描写が多い。パウロ自身にはその気がなくとも、周囲ではカリスマ的伝道者の「力ある業」を求めるニーズがあったのかもしれない。「十字架につけられたキリスト」を語る言葉よりも、「奇跡を行うパウロ」を人々は好むからである。
「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」(19:12)などという記事を読むと困惑してしまう。もし本当にパウロの持ち物にそんな神通力(?)があったとしたら、パウロは嬉しかっただろうか。人々がそんなものに夢中になっているとしたら、パウロにとっては非常に不本意だったろう。
実際、それがもとでゴタゴタが起きたのである。「各地を巡り歩いているユダヤ人の祈祷師たち」が、えらく効き目の強い「イエス」の名のことを聞きつけ、イエスのことなどまったく何も知らないまま、「試みに」その名を唱えるという騒動になっていた。
面白いことに、そういうインチキをした祭司長スケワの息子7人は、悪霊に言い返されてしまう。「イエスは知っている。パウロはよく知っている。しかし、お前たちは誰だ」と。福音書を読んでいるとわかるが、悪霊というのは本物と偽物、神から来たものとそうでないものを見分けるのである。悪霊は神聖なものに敏感だ。ただ口先でイエスの名を語っているものには何の力もない。悪霊につかれている男はスケワの息子たちにとびかかり、七人は裸にされて家から逃げ出すーーーというコメディ調活劇のような場面となる。
悪霊の大暴れは、パウロの伝えるイエス・キリストの福音が本物であることを証しすることになった。多くの人が信仰を得た。「魔術を行っていた多くの者」もその中におり、彼らは魔術の書物をもってきて焼き捨てた。それは非常に高価な書で銀貨5万枚分だったそうだ。(ところで、誰がその金額を計算したのだろう?ユダが、マリアの注いだ香油を「300デナリオンにもなるのに」と呟いたのを思い出す。そういうことが気になってしかたがない人たちがいるのだ。お金の魔力から解放されるというのは容易なことではない。)
我々にとってこのような「魔術師」撃退の話は、神話の中の冒険譚にしか聞こえないかもしれない。しかしよく考えてみよ。古代の人々にとって魔術というのは、日常生活の中に入り込み人々を支配している問題であり、容易に抗えない力だったのだ。
使徒言行録には、今日の箇所を含めて四つもの「魔術師」問題が出てくる。そこかしこで人々がこれに縛られていたということであろう。イエス・キリストの福音は、その束縛から人間を解放するものであった。イエスは、怒りの神の力で人間を恐れさせて、何でも言うことを聞くよう縛るためにこの世に来られたのではない。イエスは、人を愛する神の愛によって、縛られている人間を解き放つために世に来られたのだ。
では、現代の我々にとって、「魔術師」とはなんだろう。人間を束縛してがんじがらめにしているものはなんだろう。我々はそのような力に敏感でありたい。それを見抜く目を持ち、イエスの名によって「ノー!」と言う勇気をもっていたい。何より、神はキリストにあって必ず人を呪縛から解放してくださると信じ、その力によって生きるものでありたい。もう一度言う。イエスは神の愛によって、縛られている人間を解き放つために来られたのだ。
by boxy-diary
| 2017-08-03 07:48
| 礼拝説教の要旨