礼拝の中の説教 |
礼拝準備に力を注ぐ=説教準備を軽んじる
と思われてしまうようです。
礼拝か説教か?
こういう二者択一はおかしいと思うのですが、「説教いのち」という牧師にとっては、礼拝全体のことを持ちだされるのは、自分の領域を削られるのではないかという怖れになってしまうのでしょうか?
『アレテイア』という説教黙想の雑誌が、礼拝刷への批判や「説教の儀式化」への批判を3回シリーズで取り上げたことを受けて、同じ出版局が出している『礼拝と音楽』という雑誌の企画会議では、その問題提起への応答をしましょう、ということになりました。
すると、なぜか僕が生けにえ(?)にされて、『アレテイア』編集委員で、今の日本の説教者・説教学者を代表するような有名牧師、平野克己先生と対談することになってしまいました。
実は平野先生は、牧師サッカーチームの仲間で、旧知の友。
Ministryという彼が編集主幹をしている雑誌でも、しばらく編集委員をさせてもらいました。
そんな親しい仲だけに、いいたいことをズケズケ言わせてもらいましたが、彼からは礼拝学への問いかけや忌憚のない意見も投げかけてもらって、有益な時間になりました。
論争的になりすぎた部分はうまいことカットされ、礼拝学と説教学の協力と共働に向かって、という建設的な面を中心にした編集になっています。(編集者というのは、そういう手際が見事ですね。)
説教を語る側だけでなく、聴く側の方々にも読んで御意見頂けると嬉しいです。
実は今日、ある方から、この対談を読んで触発されたということで、信徒の側からの説教者への提言をメールで頂き、大変参考になりました。説教者の修練のためには、もっともっと聴く側からの声を真摯に聞き取る努力が必要だなあ、と思わされました。
日本キリスト教団出版局 「礼拝と音楽」