ピタウ先生 |
そのことを伝える毎日新聞の記事
ピタウ先生は、僕が上智大学に入学した時の学長だった。
入学式での式辞が今でも印象に残っている。
「良き執事たれ」という話だった。
この世界では、富は豊かなほうへ豊かなほうへと偏っていく。
天秤の片方の側がどんどん重くなっていく。
あなたがたはこの大学で学ぶからには、重いほうの皿から軽いほうの皿に重さを移して天秤のバランスを取っていくような働きをしてほしい。
神がこの世にくださった良き賜物を管理する良い執事となりなさい。
正確にはどういう話だったかわからないが、僕には上のようなメッセージとして記憶されたのだ。
その一例として、ピタウ先生があるところで出会ったある国の大臣(?)のエピソードを話された。
その大臣が自分と話をしながら、机の上においてある切手を手で切り裂いているという。
なぜそうしているのかと聞いたら、その大臣が、自分は国の財産を私用に使ってしまうこともある。だから、その分、国に返そうと思ってそうしているのだ、という。ピタウ先生はその人の公僕としての姿勢に深い感銘を受けたのだそうだ。
入学式後、SJハウス(上智大学で働くイエズス会の神父がたが住む棟)の庭でピタウ学長をお見かけしたので、式辞に感銘を受けたこともあり、思い切って「僕は法学部に入りました」と話しかけた。学長は政治学・政治思想史が専門で、法学部の教授。「先生の授業を取って、頑張って勉強したいです」というつもりだった。先生は、優しい笑顔で、張り切っている新入生を暖かく励ましてくださった。
先生と個人的に話をしたのはその一度きりである。
結局、ピタウ学長は僕が3年生になった時には、バチカンに呼ばれて教皇代理補佐に就任されたので、僕はピタウ先生の講義を取ることはできなかった。
しかし、たった一度の個人的ふれあいは長く心に残り、「尊敬するピタウ学長」という思いはずっと残った。
教育というのは、こういう感化を与え、与えられ、という関係の中でこそ行われるものなんだな、と思う。
結局、僕はプロテスタントのキリスト者となったが、ピタウ先生をはじめ、多くのカトリックの神父・修道士がたに良き影響を与えられた。そのことは確かに僕の人生の一部を形づくっている。