2014年 05月 29日
平和と抱き合う経済 |
ここのところブログ投稿が滞っておりました。
書きたいことはいろいろあるのです。
聖書や本を読んでいる時、新聞で気になるニュースを読んだ時、人の話を聴いて刺激を受けた時、電車の中でふとアイディアがひらめいた時など、「あ、これをブログに書きたいな」と思うことはしばしばあるのですが、睡眠時間を削ってまで書くガッツは残っておらず、そのまま立ち消え・・・ということが多いのです。
10年前だったら、夜更かししてせっせと書いていたのですがね。 トシトッタカ、オレ?
ひとつだけ備忘録的に。
先週土曜(5月24日)夜に、小金井市民交流センターで行われた「『いのちと平和』を大切に 今、私たちにできることは?」という講演会に行ってきました。
東小金井教会牧師の香月茂先生が呼びかけ人の一人で、「切符買ってよ」と押し売りされたので。いえ、嘘です。売ってくださったので(笑)
忙しい週を過ごした末のサタディ・イブニングだったので、翌日の説教準備のことなどを考えると、ほんの一瞬、出かけるのをためらいましたが、でも、行って良かったです。大きなインプットが与えられました。
最初は松浦悟郎司教(カトリック大阪大司教区・補佐司教)のお話しで、「日本が戦争する国にならないために宗教者は祈り行動しよう!」。
10年前に大江健三郎氏が「この国は何かぼんやりしたものによって(誤った方向へ)導かれようとしている」が語られたそうですが、今そのぼんやりしたものが姿を現し始めている、というところから松浦司教は語りだされました。ハード、ソフト、システム、すべてが変えられようとしている今。しかし、この10年にはまた、市民も変わってきた。多くの人が声を積極的にあげるようになっている。9条が輪を広げている。宗教者の連帯も進んでいる。
確かにその通りです。
おもしろかったのは、領土紛争には「南極条約」のような解決方法があるという考え方。
島々の領有権をめぐる争いがあっても、それを軍事的緊張を高める方向へ向けず、それとまったく反対の方向へと持っていくことだってできる。そういう知恵こそ、わたしたちの国にも、これからの国際社会にも必要ですよね。
そもそも日本のように貿易に依存して生きている国にとっては、戦争は取り得ない選択肢です。きわめて現実的な意味でそうなのです。だって、暮らしが成り立たなくなってしまうのですから。
ならば、どこかの総理大臣のような詐欺的な用法ではなく、ことばの正しい用い方における「積極的平和主義」で行くしかないのです。それは、戦争という選択肢を自ら捨てて、「不戦」を外交的武器として、互恵関係を築いていくことです。この国とは平和につきあっていくのが一番得策なのだ、という関係を築いていくことです。
相手国を挑発し、軍事的緊張を高めるなんてのは、愚の骨頂。
おっと、自分の考えを述べようとこれを書き始めたのではありませんでした。24日の講演会のことを書かねば。
第二の講演はエコノミストの浜矩子さん。同志社大学大学院の教授。テレビ・新聞で活躍しておられますね。さすがに話が面白い。アベノミクスならぬ、「ド・アホノミクス」で会場の大きな笑いを取っていました(^v^)
認識を改めさせられたのは、「経済活動」の捉え方。
浜さんによると、経済活動というのは人間の営みであって、人権を踏みにじるものであるところか、人間の人間らしさの土台を築くものだ、というのです。
我々は普通、経済活動の暴力から人間を守らなければならない、と考えていますが、浜さんの見方では、そういうものは経済活動の名に値しない、そう呼んではいけない。
経済というのは本来、平和と抱き合うものであって、平和と抱き合わないものを経済と呼んではいけない!
う~む、そうなんでしょうか。「経済」についてもう一回考え直してみないといけませんね。
ちなみに、浜さんの「平和と抱き合う経済」という概念にインスピレーションを与えたのは、旧約聖書・詩編85編の「慈しみとまこととはめぐりあい、正義と平和は抱き合う」という表現だそうです!
エコノミストというのは、経済状況を分析してお金持ちどもへの占い師のようなことをする仕事(!)といった偏見を抱いておりましたが、浜さんの「経済活動は人権の礎を築くもの。その信念において我々が揺らいではいけない」という強い言葉に触れて、真のエコノミーの土台には確固たる思想があるということを知らされました。
いや、なかなか大したもんだ。こういう人が、聖書から霊感を受けているというのは嬉しいことです。
他にもいろいろ学ぶことがありましたが、もう午前1時をまわっているので、ここまでにしときます。
書きたいことはいろいろあるのです。
聖書や本を読んでいる時、新聞で気になるニュースを読んだ時、人の話を聴いて刺激を受けた時、電車の中でふとアイディアがひらめいた時など、「あ、これをブログに書きたいな」と思うことはしばしばあるのですが、睡眠時間を削ってまで書くガッツは残っておらず、そのまま立ち消え・・・ということが多いのです。
10年前だったら、夜更かししてせっせと書いていたのですがね。 トシトッタカ、オレ?
ひとつだけ備忘録的に。
先週土曜(5月24日)夜に、小金井市民交流センターで行われた「『いのちと平和』を大切に 今、私たちにできることは?」という講演会に行ってきました。
東小金井教会牧師の香月茂先生が呼びかけ人の一人で、「切符買ってよ」と押し売りされたので。いえ、嘘です。売ってくださったので(笑)
忙しい週を過ごした末のサタディ・イブニングだったので、翌日の説教準備のことなどを考えると、ほんの一瞬、出かけるのをためらいましたが、でも、行って良かったです。大きなインプットが与えられました。
最初は松浦悟郎司教(カトリック大阪大司教区・補佐司教)のお話しで、「日本が戦争する国にならないために宗教者は祈り行動しよう!」。
10年前に大江健三郎氏が「この国は何かぼんやりしたものによって(誤った方向へ)導かれようとしている」が語られたそうですが、今そのぼんやりしたものが姿を現し始めている、というところから松浦司教は語りだされました。ハード、ソフト、システム、すべてが変えられようとしている今。しかし、この10年にはまた、市民も変わってきた。多くの人が声を積極的にあげるようになっている。9条が輪を広げている。宗教者の連帯も進んでいる。
確かにその通りです。
おもしろかったのは、領土紛争には「南極条約」のような解決方法があるという考え方。
島々の領有権をめぐる争いがあっても、それを軍事的緊張を高める方向へ向けず、それとまったく反対の方向へと持っていくことだってできる。そういう知恵こそ、わたしたちの国にも、これからの国際社会にも必要ですよね。
そもそも日本のように貿易に依存して生きている国にとっては、戦争は取り得ない選択肢です。きわめて現実的な意味でそうなのです。だって、暮らしが成り立たなくなってしまうのですから。
ならば、どこかの総理大臣のような詐欺的な用法ではなく、ことばの正しい用い方における「積極的平和主義」で行くしかないのです。それは、戦争という選択肢を自ら捨てて、「不戦」を外交的武器として、互恵関係を築いていくことです。この国とは平和につきあっていくのが一番得策なのだ、という関係を築いていくことです。
相手国を挑発し、軍事的緊張を高めるなんてのは、愚の骨頂。
おっと、自分の考えを述べようとこれを書き始めたのではありませんでした。24日の講演会のことを書かねば。
第二の講演はエコノミストの浜矩子さん。同志社大学大学院の教授。テレビ・新聞で活躍しておられますね。さすがに話が面白い。アベノミクスならぬ、「ド・アホノミクス」で会場の大きな笑いを取っていました(^v^)
認識を改めさせられたのは、「経済活動」の捉え方。
浜さんによると、経済活動というのは人間の営みであって、人権を踏みにじるものであるところか、人間の人間らしさの土台を築くものだ、というのです。
我々は普通、経済活動の暴力から人間を守らなければならない、と考えていますが、浜さんの見方では、そういうものは経済活動の名に値しない、そう呼んではいけない。
経済というのは本来、平和と抱き合うものであって、平和と抱き合わないものを経済と呼んではいけない!
う~む、そうなんでしょうか。「経済」についてもう一回考え直してみないといけませんね。
ちなみに、浜さんの「平和と抱き合う経済」という概念にインスピレーションを与えたのは、旧約聖書・詩編85編の「慈しみとまこととはめぐりあい、正義と平和は抱き合う」という表現だそうです!
エコノミストというのは、経済状況を分析してお金持ちどもへの占い師のようなことをする仕事(!)といった偏見を抱いておりましたが、浜さんの「経済活動は人権の礎を築くもの。その信念において我々が揺らいではいけない」という強い言葉に触れて、真のエコノミーの土台には確固たる思想があるということを知らされました。
いや、なかなか大したもんだ。こういう人が、聖書から霊感を受けているというのは嬉しいことです。
他にもいろいろ学ぶことがありましたが、もう午前1時をまわっているので、ここまでにしときます。
by boxy-diary
| 2014-05-29 01:12
| 牧師の動静