土着のエイリアン |
「土着のエイリアン」
ヨハネによる福音書15章18-27節
こどもの日の菖蒲湯 につかりながら、「菖蒲」が「勝負」や「尚武」に掛けられているという話を思い出しました。そして思ったのです。「もう僕は剣道をやることは二度とないだろうから、竹刀を握っての勝負とか尚武は関係ないけれど、でも、信仰者としての『勝負』ってのはあるんだよな」と。もちろんそれは、何かを獲得するために武器をもって他者を蹴落とすために戦うというものではありません。でも、信仰者にも戦うべき戦いというのがあって、勝負の時というのはあるのです。
ヨハネ福音書を生み出した教会は、まさにそのような勝負どころに直面していたようです。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(16:2)といわれていた、その「時」が今まさに来つつありました。世に憎まれるということを経験し、落伍する者が出始め、教会内に動揺が走る・・・。そんな時、主イエスの残していかれた御言葉はどれほど大きな力となったことでしょう。「世が・・・あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」。「だから、あなたがたも憎まれるのだ」。
イエス様はこうも言われました。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない」。これはわたしたちの“正体”に関わることです。パウロがフィリピ3:20で「しかし、わたしたちの本国(国籍、市民権)は天にあります」と言っていることを思い起こします。私は日本国発行のパスポートを持っていて、これがないと国外へ行けませんが、しかしこの旅券が私の本性を現すとか、私の生き方を形成するということはありません。私の人間性や生き方に関わるのは「天」にある市民権です。これこそが私の言動、そしてキリストに従うという生き方を規定するものです。それが世の要求と衝突する時、世に憎まれることも起こるでしょう。しかしそれは譲れないことです。キリストがわたしを選び、キリストのものとして下さったのですから。
Resident Aliens(邦題『旅する神の民』ハワーワス&ウィリモン著)という本があります。キリスト者とは、世に居留している異星人だというのです。つまり、キリスト者はこの世に生きるもの、世への責任をもってこの地に根を張って生きるものであるが、「この世のもの」ではない。だからエイリアンです。天に属する者たちがこの世のものになってしまわないのは、この世のためにも必要なことなのです。なぜなら、この世だって神様に愛されている被造物であって、神様を知ることが必要だからです。エイリアンの生き方を見て、世は神を仰ぐのです。世とは異なる価値観をもって生きる時、衝突や摩擦が起こるでしょうが、しかしそれは避けてはいけないことなのです。
クリスチャンにとっての勝負。それは悲壮な覚悟で歯をくいしばって生きる、ということとはちょっと違います。より自然で、人間らしいことです。それは、自分が本来の自分であることを守るということ。神に愛されている者が、神に愛されている者としての生き方を貫くこと。神が光をともし、卓上に置いてくれたキャンドルは、卓の下に置かれたり火を消されてはなりません。悪い力に襲われ、曲げられそうになっても、主のものとされた私は主のものとして生きる。主イエスがあなたを受け止め、あなたを愛し、あなたと共にいてくださるから、あなたはそうできるのです。