召天者記念礼拝 |
調べたことはないけれど、日本一デカイんじゃないかと思えるほど広い霊園。
その「団体家族墓苑」の一隅に、カンバーランド長老キリスト教会日本中会の墓所がある。
毎年、体育の日の祝日に、墓所の前で召天者記念礼拝が行われ、日本中会の諸教会に属する方々や、この墓所に納骨されている家族の方々が大勢参加される。
久し振りにこの礼拝での司式・説教の当番がまわってきた。
中会主事のF牧師より、説教の要約をプログラムに載せるように依頼されたので、次のようなものを送った。
説教 「忘れないということ」 イザヤ書49章14-16節
天童荒太の『悼む人』という小説で、主人公は、亡くなった人を「悼む」ために、「この人は、誰に愛されていたのでしょう、誰を愛していたのでしょう、どんなことで人に感謝されたのでしょう」ということを尋ねてまわります。それを心に刻んで人を悼むためです。
私は、この問いに共鳴を覚えました。本当にこれは大切なことです。そして実際、教会でお葬式をするときには、私たちは十把一絡げに人を葬るのでなく、神様がその人に与えてくださったユニークな人生の賜物を「愛」という焦点でとらえ、誰に愛され、誰を愛し、どのような良きものを残していったのかを語ります。そのことを通して、深くその人のことを思い、他にはないたった一つの尊い人生があったことを神様に感謝するのです。
そのような営みを「悼む」というのなら、「悼む」のはとても人間らしいことであり、いつまでも過去にこだわってジメジメするというようなことではなく、創造者への感謝に満ちたことです。そしてそれは、後ろ向きのネガティブなことではなくて、わたしたちが、過去からのバトンを受け取って、それを未来の世代にむかって手渡すために、最善を尽くして今を生きるということに直結することです。
人間は「関係的存在」だと言われます。一人で生きていると思っていても、本当は一人で生きてはいません。どうあがいても、関係の中ではじめて自分が自分であるのです。つながりの中で、自分が自分になったのです。「私」というのは既に、他者との関係の中で作られてきたものです。育ててくれた人、育てた人、良くも悪くも関わりをもってきたすべての人たちが、「私」の中にはいっています。そして、それらの存在は、今も自分の中に位置を占めていて、影響を与え続けているのです。
ならば「記念する」ことは、単に過去を振り返ってしのぶということではなくて、今も自分の中に生き続けているものを確かめ、敬意を払い、感謝すること。そして今自分が生きているということの重さをかみ締め、今この時間の中で与えられている関わり合いを大事にすることになります。世間の流れにおいていかれないよう、ただひたすら忙しくしていると、せっかくの人生が薄っぺらくなります。先に召された人たちを「忘れない」ことを大切にする生き方をしたいと思います。
神様はイスラエルに言われました。「わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻み付ける」と。人が忘れても、神様は忘れない。神様は、ご自身の生み出した一つ一つの命を決して忘れない。ここにわたしたちの人生をしっかりと支えてくれる神様の愛があります。
神の大きくて揺るがない「忘れない」の中で、わたしたちは義務としてではなく、供養としてではなく、喜びとして、「忘れない」ことをしましょう。わたしたちの人生に注ぎこまれているものを確かめ、しっかり受け継いで、その祝福を活かしていきましょう。
この日、召天者記念礼拝に御夫妻で参加してくださったGさんから、2枚の写真が送られてきました。上はその1枚です。奏楽のS姉妹に何か言おうとしているところかな?
普段、自分の姿は自分に見えていないので、こうやって写真に写った自分の姿を見ると、「オレ、年とったんだな。オレ、何してるんだろ」と思ってしまいます(^_^;)