2010年 03月 09日
世界祈祷日 Voices from Cameroon |
3月第1金曜日は、世界祈祷日の日。
そうです。そうに決まってます。
1887年からやってます。
現在、170の国および地域で行われています。
日本では1932年以来。
昨年、日本においては203箇所でこの日が守られたそうです。
いつからだったか、国立のぞみ教会で毎年守っていたこの日の集会を、カンバーランド長老教会の武蔵野・多摩にある三つの教会が持ち回りで行うようになりました。それによって、他教派からの参加のごく少ない、主にカンバーランド内の集会になってしまったのですが、しかし、三つの教会を行き巡るという楽しみはできました。(注:この集会は開かれていて、どの教会の人でも、教会に属していない人でも、自由に参加できます。)
今年は、めぐみ教会が会場でした。
私もホスト教会の牧師として、またメッセージ担当として、準備会議に参加させてもらったので、一つ提案をして『Thuma Mina つかわしてください 世界のさんび』に載っている、カメルーン産まれの賛美歌2曲を、礼拝の中で歌うようにしてもらいました。プログラムには小宮郁子さんが訳と編曲をした「息あるものはすべて 神を賛美せよ」が含まれていましたので、もちろんこれは歌った上で、他に2曲、「1 神をたたえよう」と、「3 二人、三人集まれば」を加えたのです。NCC女性委員会はどうしてこれを使わなかったのか???と不思議に思うほど、祈祷日にぴったりあった賛美でしたよ。
(もちろん、楽譜を印刷して配った曲については、発行者の日本基督教団讃美歌委員会の使用許諾を取り、許諾番号を明記しています。)
礼拝のはじまりは、「神をたたえよう」をKさんが先唱し、それを会衆が繰り返すというコール&レスポンスの形で、歌いながらKさんを先頭に入堂。
東小金井と国立のぞみの牧師たちには、僕が以前にガーナ人の友人インツィフル牧師からもらった民族衣装を着用してもらいました。そして、Kさんには、6年前に僕がガーナで妻におみやげとして露店で買ったドレスを。
どうです? なかなかいいでしょう?
まあ、ガーナとカメルーンでは、ちょっと離れていて、衣装も微妙に違うかもしれないのですが、カメルーンの写真をいろいろ見てみると、ガーナの人の衣装と極端な違いはないように(僕には)見えるので、これでゆるしていただくことにしましょう。
今回の聖書研究には、詩編150編、使徒言行録16章16-34節、イザヤ書42章10-17節が選ばれていました。
主題は「息あるものはこぞって主を賛美せよ」。
カメルーンの人たちの姿から、どんな状況の中にあっても全身全霊をもって「息」をもって主を賛美することの強さ、というものを教えられます。
しかし話は単純ではありません。今回の聖書研究には、明らかに、「息」のある小さな存在に目をとめ、その息をとめてしまうような抑圧的な力があることを訴え、そのための祈りと行動を要請する預言者的な視座があります。
「主を賛美せよ、ハレルヤ!」という歓びの叫びと、「小さい人たちが不当な搾取を受けています」という問題提起。カメルーンの女性たちから、この二つが同じ重さをもって迫ってきます。このどちらもが、神の与え給う「息」に深く関係している、ということに気がつかされます。
僕が強い印象を受けたのは、占いの霊につかれていて、占い師として主人たち(男のオーナーたち)に利益を得させていた女性の境遇と、カメルーンで家事労働に酷使され、また性産業に搾取されることも多い少女たちの境遇を重ねている、カメルーン世界祈祷日委員会の聖書の「読み」です。
以前、『説教黙想』という雑誌に、使徒16章の釈義と黙想を書いた時、彼女の半生を大胆に想像して、彼女の独り語りという形で書いたことがあります。(下に青字で掲載)
カメルーンの女性たちの聖書研究の結果と呼応しているようなので、「間違ってはいないようだ」と確認することができました。今日も、なお、劣悪な環境の中に縛られている女の子、若い女性たちのことを忘れず、祈り、また何かできることがないのか考えていかねば。
<パウロを困らせたあの女の回想>
あの時は必死でしたよ。だって、この機会を逃したら、もう希望がありませんでしたから。自分でも、あそこまで大胆な行動に出られたのが不思議です。それまで自分の意志で何かをやったなんてことなかったのにね。
私は小さい頃から、人並みはずれて霊感が強いというのか、いろんなことが直感でピンとわかってしまうところがありました。この人は事故に遭うなって思うと、その後本当にそうなってしまうとか・・・。幾度もそういうことがあったので、私の所有者たちが目をつけたんです。
そう、物心ついた時から私は奴隷でした。どうして奴隷になったのかはわかりません。誰も話してくれませんでしたから。親の借金のかたに売られたのかもしれません。そういう人、周りに多いですから。ともかく気づいたら私は主人の道具だったんです。だから、霊に取りつかれて恍惚状態になって何かをわあっと喋り、そんな簡単なことでご主人方を儲けさせられるっていうのは、私にとって悪くないことでしたよ。一日中、家事にこき使われたり、最悪の場合男たちの体の相手をさせられるよりずっとましだし、収入源として大事に扱ってくれたしね。
本当に先のことが見えたのかって?恍惚状態になると自然と言葉が次から次へ出てきて、それを吐き出すだけですから、自分ではわかりません。お客は元々暗示にかかりやすい人たちですから、あたったことが一つあれば、「本当だ、この女はすごい」ってことになって・・・。それに長年こういう商売やってると、自然とお客のツボにはまることを言えるようになってくるんですよ。聞きたくないだろうことはうまく避けてね。人間なんて大体同じようなもんだから、読みも結構通用するんですよ。
でも、パウロ先生たちに出会った時は、これじゃいけないんだという気持ちが心の底から湧き上がってきたんです。自分は道具じゃなくて一人の人間として生きたいって。それにはこの人たちが伝えているキリストというお方のもとへ行くべきだって直感しました。その導きはとても強いものでした。でも同時に、私をずっと支配してきた悪い霊が猛烈に騒ぎ出したんです。私の内で猛烈な葛藤があって、その結果が、あの“ほめ殺し”の連呼。パウロ先生を困らせてしまって申し訳なかったけれど、ああしなければ私は一生救われなかったのだから・・・。
今?この通り、霊の降臨は見事になくなっちゃって(笑)。お金が稼げなくなって大騒ぎになって、いろいろ大変だったし、生活は苦しくなったけど、今はとっても自由です。面倒な事情があって詳しいことはお話しできません。でも、一つ言えるのは、あの時、私は私として自分の人生を生き始めたっていうこと。これは確かです。
そうです。そうに決まってます。
1887年からやってます。
現在、170の国および地域で行われています。
日本では1932年以来。
昨年、日本においては203箇所でこの日が守られたそうです。
いつからだったか、国立のぞみ教会で毎年守っていたこの日の集会を、カンバーランド長老教会の武蔵野・多摩にある三つの教会が持ち回りで行うようになりました。それによって、他教派からの参加のごく少ない、主にカンバーランド内の集会になってしまったのですが、しかし、三つの教会を行き巡るという楽しみはできました。(注:この集会は開かれていて、どの教会の人でも、教会に属していない人でも、自由に参加できます。)
今年は、めぐみ教会が会場でした。
私もホスト教会の牧師として、またメッセージ担当として、準備会議に参加させてもらったので、一つ提案をして『Thuma Mina つかわしてください 世界のさんび』に載っている、カメルーン産まれの賛美歌2曲を、礼拝の中で歌うようにしてもらいました。プログラムには小宮郁子さんが訳と編曲をした「息あるものはすべて 神を賛美せよ」が含まれていましたので、もちろんこれは歌った上で、他に2曲、「1 神をたたえよう」と、「3 二人、三人集まれば」を加えたのです。NCC女性委員会はどうしてこれを使わなかったのか???と不思議に思うほど、祈祷日にぴったりあった賛美でしたよ。
(もちろん、楽譜を印刷して配った曲については、発行者の日本基督教団讃美歌委員会の使用許諾を取り、許諾番号を明記しています。)
礼拝のはじまりは、「神をたたえよう」をKさんが先唱し、それを会衆が繰り返すというコール&レスポンスの形で、歌いながらKさんを先頭に入堂。
東小金井と国立のぞみの牧師たちには、僕が以前にガーナ人の友人インツィフル牧師からもらった民族衣装を着用してもらいました。そして、Kさんには、6年前に僕がガーナで妻におみやげとして露店で買ったドレスを。
どうです? なかなかいいでしょう?
まあ、ガーナとカメルーンでは、ちょっと離れていて、衣装も微妙に違うかもしれないのですが、カメルーンの写真をいろいろ見てみると、ガーナの人の衣装と極端な違いはないように(僕には)見えるので、これでゆるしていただくことにしましょう。
今回の聖書研究には、詩編150編、使徒言行録16章16-34節、イザヤ書42章10-17節が選ばれていました。
主題は「息あるものはこぞって主を賛美せよ」。
カメルーンの人たちの姿から、どんな状況の中にあっても全身全霊をもって「息」をもって主を賛美することの強さ、というものを教えられます。
しかし話は単純ではありません。今回の聖書研究には、明らかに、「息」のある小さな存在に目をとめ、その息をとめてしまうような抑圧的な力があることを訴え、そのための祈りと行動を要請する預言者的な視座があります。
「主を賛美せよ、ハレルヤ!」という歓びの叫びと、「小さい人たちが不当な搾取を受けています」という問題提起。カメルーンの女性たちから、この二つが同じ重さをもって迫ってきます。このどちらもが、神の与え給う「息」に深く関係している、ということに気がつかされます。
僕が強い印象を受けたのは、占いの霊につかれていて、占い師として主人たち(男のオーナーたち)に利益を得させていた女性の境遇と、カメルーンで家事労働に酷使され、また性産業に搾取されることも多い少女たちの境遇を重ねている、カメルーン世界祈祷日委員会の聖書の「読み」です。
以前、『説教黙想』という雑誌に、使徒16章の釈義と黙想を書いた時、彼女の半生を大胆に想像して、彼女の独り語りという形で書いたことがあります。(下に青字で掲載)
カメルーンの女性たちの聖書研究の結果と呼応しているようなので、「間違ってはいないようだ」と確認することができました。今日も、なお、劣悪な環境の中に縛られている女の子、若い女性たちのことを忘れず、祈り、また何かできることがないのか考えていかねば。
<パウロを困らせたあの女の回想>
あの時は必死でしたよ。だって、この機会を逃したら、もう希望がありませんでしたから。自分でも、あそこまで大胆な行動に出られたのが不思議です。それまで自分の意志で何かをやったなんてことなかったのにね。
私は小さい頃から、人並みはずれて霊感が強いというのか、いろんなことが直感でピンとわかってしまうところがありました。この人は事故に遭うなって思うと、その後本当にそうなってしまうとか・・・。幾度もそういうことがあったので、私の所有者たちが目をつけたんです。
そう、物心ついた時から私は奴隷でした。どうして奴隷になったのかはわかりません。誰も話してくれませんでしたから。親の借金のかたに売られたのかもしれません。そういう人、周りに多いですから。ともかく気づいたら私は主人の道具だったんです。だから、霊に取りつかれて恍惚状態になって何かをわあっと喋り、そんな簡単なことでご主人方を儲けさせられるっていうのは、私にとって悪くないことでしたよ。一日中、家事にこき使われたり、最悪の場合男たちの体の相手をさせられるよりずっとましだし、収入源として大事に扱ってくれたしね。
本当に先のことが見えたのかって?恍惚状態になると自然と言葉が次から次へ出てきて、それを吐き出すだけですから、自分ではわかりません。お客は元々暗示にかかりやすい人たちですから、あたったことが一つあれば、「本当だ、この女はすごい」ってことになって・・・。それに長年こういう商売やってると、自然とお客のツボにはまることを言えるようになってくるんですよ。聞きたくないだろうことはうまく避けてね。人間なんて大体同じようなもんだから、読みも結構通用するんですよ。
でも、パウロ先生たちに出会った時は、これじゃいけないんだという気持ちが心の底から湧き上がってきたんです。自分は道具じゃなくて一人の人間として生きたいって。それにはこの人たちが伝えているキリストというお方のもとへ行くべきだって直感しました。その導きはとても強いものでした。でも同時に、私をずっと支配してきた悪い霊が猛烈に騒ぎ出したんです。私の内で猛烈な葛藤があって、その結果が、あの“ほめ殺し”の連呼。パウロ先生を困らせてしまって申し訳なかったけれど、ああしなければ私は一生救われなかったのだから・・・。
今?この通り、霊の降臨は見事になくなっちゃって(笑)。お金が稼げなくなって大騒ぎになって、いろいろ大変だったし、生活は苦しくなったけど、今はとっても自由です。面倒な事情があって詳しいことはお話しできません。でも、一つ言えるのは、あの時、私は私として自分の人生を生き始めたっていうこと。これは確かです。
by boxy-diary
| 2010-03-09 15:44
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