日曜は教会へ めぐみ教会には12名のゲストがやってきました |
めぐみには12名の人たちがやってきました。説教者は、「荒瀬家の牧師」でもあるWilliam Warren先生。めぐみ教会の基本理念と共鳴しあうような、とてもよい説教をしてくれました。(下に要約を掲載します。)
礼拝のあとは、歓迎の昼食会。お稲荷さん、かっぱ巻き、おそば、カレーライスなど、多くの種類のものを少しずつトライしてもらいました。
おなかがいっぱいになったところで、12名の方々に自己紹介をしてもらいました。ある人はサンフランシスコの大きな中国人教会から来た長老、ある人はオクラホマ州のとても小さな教会からきた牧師・・・といった具合に、多様性のある顔ぶれであったことは、めぐみ教会の人たちにとって良いことでした。同じアメリカといっても、相当に異なる環境において信仰生活を守ってこられた方々です。まさに、今回の主題、メニーブランチズ ワンツリー (たくさんの枝 一本の木)。
伝道局の会議でいつもご一緒するゲイさん。今回初めてお連れ合いであるウッド牧師にお会いしました。おやっ、なんで自己紹介中に手をつないでんの???
アップル(こどもの教会)も全面的に参加し、擬音ゲームをやってくれました。
これは、たとえば「ざあざあ」と子供がいって、それが何を表す擬音語(オノマトピーア)であるかをあててもらうというもの。面白かったのは「ちゅうちゅう」。ネズミという答えはなんとか出ましたが、英語ではなんという問いかけに、リンダさんが「M i ckey m o u s e」と、ミッキーマウスのテーマを歌いだしたこと。「本当はなんと言うの?」という問いには、何人かの人が「ネズミは鳴かないよ」と言ってました(笑)
続いて「かあさん、お肩をたたきましょ」。
女性たちに並んで腰かけてもらい、こどもたちがこの歌を歌いながら肩をたたきました。僕がメンフィス神学校で同級生だったシンシア(テキサスで牧師をしています)は、アメリカに残してきた我が子を思い出してか、泣き出してしまいました。(横を向いているのがシンシア)
そして、最後に外へ出て記念撮影。
説教の要旨「行って学びなさい」マタイ9・9-13
GO AND LEARN Sermon by Reverend William Warren
あなたは人を見る時、何を見ているでしょうか。皮膚の色、体つき、表情、着ている物、美醜といった外見でしょうか。あるいは、その人の職業や果たしている役割、どれだけ成功している人か、どれだけ稼いでいるか、社会的な評価といったことでしょうか。育った家庭や文化、宗教といったものによって作り上げられてきた自分の物差しで人を計り、この人は良い人か悪い人か、誠実かそうでないか、信仰的かそうでないか、といった判断をくだすのでしょうか。
もう一つ加えて問うならば、あなたは自分を見る時、何を見ているでしょうか。自分を鏡で見る時、あるいは自分自身を内省する時、何が見えるでしょうか。アメリカ改革派教会の総会書記のグランバーグ-マイケルソン牧師が、霊的指導者との対話で最初にこう問われたそうです。「何があなたの人生を規定していますか?」。彼は返事に困りませんでした。それは「仕事」であるということが明瞭だったからです。自分の幸福やアイデンティティはすべて仕事に根ざしていたのです。あなたもそうですか。どれだけ業績をあげたか、どれだけ忙しいか、自分や社会の期待に応えるこどもを育てたか、といったことにあなたの生きがいは乗っているのでしょうか。
私が運動のために通っているジムで、ある時、忘れ難い光景を目にしました。一人の若い女性が、いかにも元気のない若い男性のところに近づき、「どうしてる?」と尋ねたのです。聞き取れませんでしたが彼は自分の味わっている辛さを話しているようでした。私は彼女のまなざしに心を惹かれました。目は心の窓といいますが、彼女の眼はいかに深く彼女が彼のことを思い、慈しんでいるかをくっきりと表していました。それは一人の大切な、愛されている人間を見る眼、イエスのまなざしでした。
イエス様は収税所に座っているマタイという男に何を見たのでしょう。世間は彼を「収税人」として見ていました。利益のためにひどいことをする邪悪な人間として彼を見ていました。正しい人間というランクから脱落した人間を見ていました。しかしイエスはそれ以上のものを彼に見ていたのです。彼は、神のかたちに創造された存在であり、神様が深い慈しみをもってみつめている存在です。イエス様は、マタイと食事を共にしている自分たちを批判の目で見ている人たちに対して、こういわれました。
「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」とはどういう意味か、行って学びなさい」。
これは一晩で学べることではありません。神学校で1、2学期学んで習得できるものでもありません。一生かかることです。しかし、私たちは成長することができるのです。信仰の旅を続けるの中で、少しずつ少しずつ、イエスのまなざしをもって他者を見ることができるようになるのです。一人一人の存在が、容貌とか仕事とか成功とかの足し算以上のものであることを見ることができるようになるのです。そして自分自身をそのまなざしをもって見ることができるようになるのです。私たちもまた、神の形につくられ、神の慈しみを受け、キリストが命をかけてくださった人間です。
行って学びなさい。神様が求めておられるのは深い憐れみであることを。