2017年 05月 01日
説教要旨「先へ進んでいくために」 |
2017年4月23日 めぐみ教会 召天者記念礼拝
「先へ進んでいくために」 荒瀬牧彦牧師
マタイによる福音書28章1-15節
東京新聞のコラムで、みうらひろこさんの「遅すぎた約束」という詩を知り、詩集を入手しました。この方は、福島・浪江に住んでおられたけれども原発事故の後は戻れなくなって、今は相馬在住という詩人です。津波の後、救助に向かったけれど原発事故のために引き揚げなければならなくなって、「明日の朝来るからな」と約束したのだけれど、それが果たせなかった。自責の念で心を病んでしまった方々に、「あなたは悪くない」と語り掛ける詩です。読んでいて胸が苦しくなります。助けが来ないままに亡くなっていった人の無念と、助けられなかったという悔恨を抱えて生き残る人の辛さ。そのいかんともし難い苦渋を、あたかもなかったかのように忘れては(忘れた振りをしては)いけないのだと、この詩に教えられます。
わたしたちは今日、召天者記念礼拝を守っています。この小さな教会の小さな歩みの中でも、痛みのうちに愛する人の死を経験してきました。すべての死が、安らかで満ち足りた死だった、というわけではありません。すべての別れが、送る方も送られる方も慈しみに包まれた優しいものであったわけではありません。その意味において、愛する者を見送ってなおここで生きてる自分たちと、イエスが十字架で処刑されてしまって途方にくれていた、あの時の弟子たちとを重ねることができると思うのです。
主イエスからの弟子たちへのメッセージが「ガリラヤに行きなさい」であったというのは、とても意味深いことです。イエスは墓の中に遺体として安置されているのではなく、ガリラヤに先立って行かれている、というのです。弟子たちはその言葉を受けて、ガリラヤへと向かわなければならないのです。
「先立って行く」という動詞の用例を調べると興味深いことがわかります。イエス様誕生の場面に(マタイ2:9)、東から来た占星術の学者たちが出かけると、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」という箇所。また、主イエスが三度目の死と復活の予告をされた場面(マルコ10:32)の「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」という箇所。大切な使命があり、果たすべきことに向かっていかねばならない。そういう時に、人間には先立ち導いてくれる存在が必要なのです。挫折し、途方に暮れていたであろう臆病な弟子たちは、先立つ方なしにどこへも行けなかったのです。
ガリラヤで彼らは再出発します。彼らが最初にイエス様に従い始めたあのガリラヤへ行って、そこで復活のイエス様と会い、再び立ち上がるのです。それは再出発というより本出発なのかもしれません。そこからが彼らの本番なのです。これからは彼らが、イエス様のもたらしてくださった神の国を証ししていくのです。人生はこれからです。
愛する者を失い、希望や気力を失ってしまった方にも、先立つイエスがおられるということは真実です。ふぬけになって、惰性で生きている・・・その人にもイエスは語りかけます。「ガリラヤへ行きなさい。私が先に行って待っている」。それは「生きなさい!」という呼びかけです。あなたにはやるべきことがあるのです。
辛いことがあり、泣きたいことがあります。人生は大変です。でも行く当てがない彷徨なのではありません。主が先立っておられるからです。先立つ主がおられるから、先へと進んでいくことができるのです。
「先へ進んでいくために」 荒瀬牧彦牧師
マタイによる福音書28章1-15節
東京新聞のコラムで、みうらひろこさんの「遅すぎた約束」という詩を知り、詩集を入手しました。この方は、福島・浪江に住んでおられたけれども原発事故の後は戻れなくなって、今は相馬在住という詩人です。津波の後、救助に向かったけれど原発事故のために引き揚げなければならなくなって、「明日の朝来るからな」と約束したのだけれど、それが果たせなかった。自責の念で心を病んでしまった方々に、「あなたは悪くない」と語り掛ける詩です。読んでいて胸が苦しくなります。助けが来ないままに亡くなっていった人の無念と、助けられなかったという悔恨を抱えて生き残る人の辛さ。そのいかんともし難い苦渋を、あたかもなかったかのように忘れては(忘れた振りをしては)いけないのだと、この詩に教えられます。
わたしたちは今日、召天者記念礼拝を守っています。この小さな教会の小さな歩みの中でも、痛みのうちに愛する人の死を経験してきました。すべての死が、安らかで満ち足りた死だった、というわけではありません。すべての別れが、送る方も送られる方も慈しみに包まれた優しいものであったわけではありません。その意味において、愛する者を見送ってなおここで生きてる自分たちと、イエスが十字架で処刑されてしまって途方にくれていた、あの時の弟子たちとを重ねることができると思うのです。
主イエスからの弟子たちへのメッセージが「ガリラヤに行きなさい」であったというのは、とても意味深いことです。イエスは墓の中に遺体として安置されているのではなく、ガリラヤに先立って行かれている、というのです。弟子たちはその言葉を受けて、ガリラヤへと向かわなければならないのです。
「先立って行く」という動詞の用例を調べると興味深いことがわかります。イエス様誕生の場面に(マタイ2:9)、東から来た占星術の学者たちが出かけると、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」という箇所。また、主イエスが三度目の死と復活の予告をされた場面(マルコ10:32)の「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」という箇所。大切な使命があり、果たすべきことに向かっていかねばならない。そういう時に、人間には先立ち導いてくれる存在が必要なのです。挫折し、途方に暮れていたであろう臆病な弟子たちは、先立つ方なしにどこへも行けなかったのです。
ガリラヤで彼らは再出発します。彼らが最初にイエス様に従い始めたあのガリラヤへ行って、そこで復活のイエス様と会い、再び立ち上がるのです。それは再出発というより本出発なのかもしれません。そこからが彼らの本番なのです。これからは彼らが、イエス様のもたらしてくださった神の国を証ししていくのです。人生はこれからです。
愛する者を失い、希望や気力を失ってしまった方にも、先立つイエスがおられるということは真実です。ふぬけになって、惰性で生きている・・・その人にもイエスは語りかけます。「ガリラヤへ行きなさい。私が先に行って待っている」。それは「生きなさい!」という呼びかけです。あなたにはやるべきことがあるのです。
辛いことがあり、泣きたいことがあります。人生は大変です。でも行く当てがない彷徨なのではありません。主が先立っておられるからです。先立つ主がおられるから、先へと進んでいくことができるのです。
by boxy-diary
| 2017-05-01 10:40
| 礼拝説教の要旨