2017年 02月 28日
説教要旨「心から従ってこそ」 |
2017年2月12日 めぐみ教会礼拝説教
「心から従ってこそ」 荒瀬牧彦牧師
マタイによる福音書5章17-20節
「イエスは掟破りだ!神聖なる律法を公然と無視するような者は断じて許せない!」律法学者やファリサイ派の人たちは激しく怒った。しかし本当に「イエスは律法を踏みにじった」のか? イエスは言われた。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
誤解してはならない。イエスは「律法なんて守らなくていいよ」と思っていたのではない。「私が来たから律法はもう不要だ」と主張していたのでもない。
「おどり出る姿で」という讃美歌がある。その3節は「きよい安息日に主イエスは、歩けない人立ち上がらせ、律法やぶると責められても、みこころに生きた」である。
責めた人々は、律法を破っていると言ったが、主イエスは「みこころに生きた」のだ。神のみこころを生きるために授けられたのが律法なのだから、「みこころに生きた」ことは、律法を破ることではなくて完成することである。
律法を、「あれをしてはいけない」、「これをしなくてはいけない」と細分化して、細かい規則を表面的に順守することではなく、律法にこめられている神の真意をとらえて、神の喜ばれる「善い」ことを選び取るのが律法の本来的な目的なのだ。
イエスは言われる。「『殺すな』とはあなたがたが聞いてきたことだ。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでもさばきを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。
これは大変だ!腹を立てないものなどいるのか。馬鹿なことをした人に馬鹿といわずにおれるか。とても無理だ。誤解してはならない。イエス様は「腹を立てるな、ばかというな、愚か者というな」という無茶な規則を新たに追加した、ということではないのだ。律法に血を通わせ、神が律法を人間に与えられた真意を教えてくださったのだ。
「兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける」。ここに十戒の「殺すな」という掟の真意がある。内心においてでも人を踏みにじるなら、心の中でその人を消したこと。神はそれを望んでいない。問題は、神が人間に授けた尊厳が守られているかどうかなのだ。
ではこれを守れるか守れないかといったら、守れない。守れない我々人間だが、それでも神は、御子キリストのいのちを代償としてまで愛し、尊いものとみなし、その尊厳を守ることを命じている。このみこころを知って悔い改めることが大切なのだ。律法の真に示すところを知り、素直に自分の非を認められるものでありたい。
「イエス様、そんなに厳しく律法を解釈したらとてもついていけませんよ」と思ってしまう我々であるが、視点を変えて、「馬鹿」と人をなじってしまう側からではなく、なじられる側からみたらどうだろう。
「ばか」とけなされ、「役立たず」と言われても、何も言い返せず、黙って言われるしかないような側から見たらどうか。そんな自分のことを、神の律法は守ろうとしてくれているのだ。「兄弟を馬鹿者というものは地獄に投げ込まれるんだぞ」と強い者や賢い者たちを戒めて、この小さなわたしの尊厳を守ってくださろうとしておられるのだ。驚くべき律法ではないか。
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「心から従ってこそ」 荒瀬牧彦牧師
マタイによる福音書5章17-20節
「イエスは掟破りだ!神聖なる律法を公然と無視するような者は断じて許せない!」律法学者やファリサイ派の人たちは激しく怒った。しかし本当に「イエスは律法を踏みにじった」のか? イエスは言われた。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
誤解してはならない。イエスは「律法なんて守らなくていいよ」と思っていたのではない。「私が来たから律法はもう不要だ」と主張していたのでもない。
「おどり出る姿で」という讃美歌がある。その3節は「きよい安息日に主イエスは、歩けない人立ち上がらせ、律法やぶると責められても、みこころに生きた」である。
責めた人々は、律法を破っていると言ったが、主イエスは「みこころに生きた」のだ。神のみこころを生きるために授けられたのが律法なのだから、「みこころに生きた」ことは、律法を破ることではなくて完成することである。
律法を、「あれをしてはいけない」、「これをしなくてはいけない」と細分化して、細かい規則を表面的に順守することではなく、律法にこめられている神の真意をとらえて、神の喜ばれる「善い」ことを選び取るのが律法の本来的な目的なのだ。
イエスは言われる。「『殺すな』とはあなたがたが聞いてきたことだ。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでもさばきを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。
これは大変だ!腹を立てないものなどいるのか。馬鹿なことをした人に馬鹿といわずにおれるか。とても無理だ。誤解してはならない。イエス様は「腹を立てるな、ばかというな、愚か者というな」という無茶な規則を新たに追加した、ということではないのだ。律法に血を通わせ、神が律法を人間に与えられた真意を教えてくださったのだ。
「兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける」。ここに十戒の「殺すな」という掟の真意がある。内心においてでも人を踏みにじるなら、心の中でその人を消したこと。神はそれを望んでいない。問題は、神が人間に授けた尊厳が守られているかどうかなのだ。
ではこれを守れるか守れないかといったら、守れない。守れない我々人間だが、それでも神は、御子キリストのいのちを代償としてまで愛し、尊いものとみなし、その尊厳を守ることを命じている。このみこころを知って悔い改めることが大切なのだ。律法の真に示すところを知り、素直に自分の非を認められるものでありたい。
「イエス様、そんなに厳しく律法を解釈したらとてもついていけませんよ」と思ってしまう我々であるが、視点を変えて、「馬鹿」と人をなじってしまう側からではなく、なじられる側からみたらどうだろう。
「ばか」とけなされ、「役立たず」と言われても、何も言い返せず、黙って言われるしかないような側から見たらどうか。そんな自分のことを、神の律法は守ろうとしてくれているのだ。「兄弟を馬鹿者というものは地獄に投げ込まれるんだぞ」と強い者や賢い者たちを戒めて、この小さなわたしの尊厳を守ってくださろうとしておられるのだ。驚くべき律法ではないか。
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by boxy-diary
| 2017-02-28 20:33