2017年 02月 28日
説教要旨「ミステリー入門」 |
2017年2月5日 めぐみ教会礼拝説教
「ミステリー入門」 荒瀬牧彦牧師
マタイによる福音書13章10-17節
上手な譬えを語る人がいます。サッカーの本田選手の「ゴールはケチャップのようなもの。出ない時は出ないが、出る時はドバっと出る」とか、『ピーナッツ』の作者シュルツさんの「人生は十段変速の自転車。持っているものの大半は使っていない」などは絶妙で、よくわかります。未知の世界や人生といった大きなテーマを説明するのに、身近な題材をたとえに使ってくれると、わかりやすく(あるいは、わかったような気に)なるのです。
ところがイエス様の譬えはどうでしょう。「わかりやすい」ものではなかったのです。意味不明で多くの人を戸惑わせることが多いのです。ならば、なんのための譬えでしょう。
イエス様は突然、「種を蒔く人が種蒔きに出ていった。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」という話を始めます。神の真理を聞こうとしているのに、なんで農業の話?と思ったでしょう。
弟子たちはおそらく心配になったのでしょう。イエス様に近づいていき、どうして譬えで話すのか尋ねました。これはつまり、<もっとわかりやすく直截に話してくれませんか。我々もよくわからないのですよ」ということだったのです。
イエス様の答えは意外なものでした。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」。イエス様ってこんな差別的で、意地悪なことを言う御方でしょうか。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言ったではないですか。そして実際、どんな人も受け入れています。イエス様は、ご自分にどんな人が近づいてきても問題などなく、妨げたりしないのです。むしろ問題は、近づいてこないことです。
弟子たちは「近寄っていった」のです。教えてほしいと求めて行ったのです。そういう人たちが「あなたがた」と呼ばれたのです。その「あなたがた」には、天の国の秘密(ミュステリオン=英語のミステリーの語源。神秘とか奥義とも訳せる)が明かされる。人の思いや理解を超えた神の愛は、深遠なミステリーです。それが譬えによって示される。<種蒔く人が蒔いた種とは、神の御言葉である。あなたたちにはそれが蒔かれている。それは100倍の実を結ぶ!> というのです。
でもこの種は、落ちた土地の様子と無関係にばりばり実をつける種ではありません。この種は出会いを待っているのです。相手が拒否したり無視したりすれば、その先へは進みません。言葉をかけても返事がなければその先へは進まない。
イエス様の譬えを聞いて、「わからないな。私には関係ない」と背を向けていく人が、「あの人たち」となります。それは「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」人たちです。頭の良さとか文学的理解力の問題ではありません。本気で見たい知りたいと願ってイエス様のもとに飛び込んでいくならば、ミステリーに入門できるのです。
イエス様の譬えというのは、ちょっと入りにくい玄関のようなものかもしれません。それは、すぐあきらめて帰ってしまう人と、中に入る人を分ける働きをするのです。わかりにくい玄関なんて、なぜそんな面倒くさいことをするのか?それは、神さまがわたしたちとの人格的な関係を求めておられるからです。神さまは、あなたと深くつながりたいのです。神とは、単なる哲学上の概念ではない。あなたに語り掛ける、熱い心をもった人格なのです。あなたの応答を心から待っている神なのです。
イエス様にとっての「あなたがた」になるのか、それとも聞いても聞かない「あの人たち」になるのか。イエス様は、「あなたがた」を求めて譬えを語り続けます。
「ミステリー入門」 荒瀬牧彦牧師
マタイによる福音書13章10-17節
上手な譬えを語る人がいます。サッカーの本田選手の「ゴールはケチャップのようなもの。出ない時は出ないが、出る時はドバっと出る」とか、『ピーナッツ』の作者シュルツさんの「人生は十段変速の自転車。持っているものの大半は使っていない」などは絶妙で、よくわかります。未知の世界や人生といった大きなテーマを説明するのに、身近な題材をたとえに使ってくれると、わかりやすく(あるいは、わかったような気に)なるのです。
ところがイエス様の譬えはどうでしょう。「わかりやすい」ものではなかったのです。意味不明で多くの人を戸惑わせることが多いのです。ならば、なんのための譬えでしょう。
イエス様は突然、「種を蒔く人が種蒔きに出ていった。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」という話を始めます。神の真理を聞こうとしているのに、なんで農業の話?と思ったでしょう。
弟子たちはおそらく心配になったのでしょう。イエス様に近づいていき、どうして譬えで話すのか尋ねました。これはつまり、<もっとわかりやすく直截に話してくれませんか。我々もよくわからないのですよ」ということだったのです。
イエス様の答えは意外なものでした。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」。イエス様ってこんな差別的で、意地悪なことを言う御方でしょうか。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言ったではないですか。そして実際、どんな人も受け入れています。イエス様は、ご自分にどんな人が近づいてきても問題などなく、妨げたりしないのです。むしろ問題は、近づいてこないことです。
弟子たちは「近寄っていった」のです。教えてほしいと求めて行ったのです。そういう人たちが「あなたがた」と呼ばれたのです。その「あなたがた」には、天の国の秘密(ミュステリオン=英語のミステリーの語源。神秘とか奥義とも訳せる)が明かされる。人の思いや理解を超えた神の愛は、深遠なミステリーです。それが譬えによって示される。<種蒔く人が蒔いた種とは、神の御言葉である。あなたたちにはそれが蒔かれている。それは100倍の実を結ぶ!> というのです。
でもこの種は、落ちた土地の様子と無関係にばりばり実をつける種ではありません。この種は出会いを待っているのです。相手が拒否したり無視したりすれば、その先へは進みません。言葉をかけても返事がなければその先へは進まない。
イエス様の譬えを聞いて、「わからないな。私には関係ない」と背を向けていく人が、「あの人たち」となります。それは「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」人たちです。頭の良さとか文学的理解力の問題ではありません。本気で見たい知りたいと願ってイエス様のもとに飛び込んでいくならば、ミステリーに入門できるのです。
イエス様の譬えというのは、ちょっと入りにくい玄関のようなものかもしれません。それは、すぐあきらめて帰ってしまう人と、中に入る人を分ける働きをするのです。わかりにくい玄関なんて、なぜそんな面倒くさいことをするのか?それは、神さまがわたしたちとの人格的な関係を求めておられるからです。神さまは、あなたと深くつながりたいのです。神とは、単なる哲学上の概念ではない。あなたに語り掛ける、熱い心をもった人格なのです。あなたの応答を心から待っている神なのです。
イエス様にとっての「あなたがた」になるのか、それとも聞いても聞かない「あの人たち」になるのか。イエス様は、「あなたがた」を求めて譬えを語り続けます。
by boxy-diary
| 2017-02-28 20:25
| 礼拝説教の要旨