説教要旨「子どもらの声を聴け」 |
「子どもらの声を聴け」 荒瀬牧彦牧師
マタイによる福音書21章12-16節
多くの巡礼者でごった返すエルサレム神殿の境内へと入っていった主イエスは、大賑わいではあるものの、そこにいる人々のうちに神さまへの思いがないのをご覧になった。
ここは神殿なのだ。「神」のための儀式をしているのだ。しかし実際的には、神にお引き取り願っているのである。名前だけ貸してくれるなら、神さまは出てこないほうが丁度いい、ということだろうか。
この時の主イエスの行動は過激である。売り買いしていた人々を皆追い出し、商売人の台や腰掛をひっくり返した。その結果、商売がストップして、しんとなったところでイエス様は言われた。
「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」(イザヤ56:7)。
ところがその場所が「強盗の巣」(エレミヤ7:11)になっている。
人々は「神殿」とか「祭儀」という名目だからここなら誰にも責められず安全だが、実際彼らは泥棒しているのだ。
激しいイエスの姿を我々ははここに見る。でもその内面を想像するなら、怒りの爆発ということではなくて、ましてやブチ切れてスカッとしたいうようなことではなく、ひたすら悲しかったのではないだろうか。父なる神の<わかってもらえない悲しみ>、<誰もわかろうとなどしていないがゆえの悲しみ>を、主イエスは悲しんでおられる。
ただ、マタイによる福音書では、この「宮清め」の直後に、それとまったく逆のことが起こったことも書いてある。そこに注目しよう。
目の見えない人や足の不自由な人たちがイエスのそばに寄ってきたのだ。障がいをもった人たちは神殿には入れなかったはずである。「傷がある」というレッテルを貼られ、入口までしか来れなかったようなのだ。でもこの時、彼らはイエスのもとに近づいてきた。イエス様のもとに来たというのは、それ自体が祈りではないか。「主よ、憐れんでください。触れてください。ことばをきかせてください。救ってください」という祈りなのだ。イエスは、誰が祈っても、どんな祈り方であったても、真摯な祈りに感動し、その祈りにつき動かされる方である。この時もそうだ。イエスは彼らを癒された。神の業がそこで起こった。
そして、こどもたちの声が境内に聞こえてきた。「ダビデの子にホサナ」という叫び声だ。節がついた歌だったのだろうと想像する。イエス様がロバに乗ってエルサレムに入って来られた時に、群衆が歓呼して迎えた「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に祝福あれ」というあの歌だ。こどもたちは、イエス様のことが嬉しくて、「ホサナ」と叫んでいた。その子たちの目には、イエスという方は乱暴で恐ろしい人というふうには映らなかったのだ。ホサナ、主よ救いを!そう叫びたくなる平和の王様だったのだ。
この時起こったことを考えてみよう。商売の喧騒がとまり、本気で神に救いを求める人々が来て、子どもらが賛美の声をあげ――ほんの一瞬かもしれないが――神なき神殿が本物の「祈りの家」になったのだ。神は真剣な祈りと賛美を喜び、そこに交わりが生まれる。イエスが来られた時、そこに「神殿」が生じたのだ。
イエス様にひっくり返してもらおう!わたしたちの常識やにぎわいや忙しさを。祈りのない、神への無感覚や無神経が支配する我らの神殿を。イエス様にひっくり返してもらおう!真摯な祈りを取り戻すために。幼な子のような純粋な賛美を取り戻すために。
ひっくり返され、そして祈ろう。「神さま、わたしたちはわからないでいるのです。わからせてください。あなたは何を感じておられるのですか。何を求めておられるのですか。わからせてください」。
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