説教要旨「神の子どもたちを愛す」 |
説教「神の子たちを愛す」 荒瀬牧彦牧師
ヨハネの手紙一 5章1-5節
今日わたしたちに与えられている聖書の箇所は、「イエスがメシア(救い主)であると信じる人」は、神から生まれた者なのだ、と主張している。
イエスがこの世に来られたので、神様がわからなかったわたしたち人間が、神と結ばれた。イエスを信じるとは、神が自分を子として愛してくださっているとわかることだ。そしてそれは、神から生まれた他の人を愛するということに直結する。神の愛のゆえに人が人を愛する力をもつ。それは「信仰」であり「世に打ち勝つ」ことである。―――さて、この聖書の言葉は、我々の現実の中でどんな意味を持つのだろう。それを思いめぐらしているさ中、相模原の津久井やまゆり園で、元職員の男性によって19名が刺殺され26名が重軽傷を負うという衝撃的な事件が起こった。どうしても、このことを考えざるを得ない。(当初の説教計画は大幅に変更することにした。)
事件をめぐり多くのことが語られている。多くの次元で問題を提起している事件だから、それぞれの次元をよく考えねばならないが、我々は彼が繰り返している主張そのものの問題を直視する必要がある。
彼は、「重複障害を持つ人は社会のために存在するべきではない」、「彼らは税金を無駄遣いしている」と発言していたことがわかっている。勤務する園の園長に、「ナチスの考えと同じだ」と指摘された時、それを認めたという。ナチス政権は「優生」思想のもと「生きるに値しない命の根絶」を唱え、20万人以上が障がい者安楽死政策の犠牲になったという。断種手術も強行された。税金を無駄遣いする者、劣悪遺伝子を残す人間は存在するなという恐ろしい考え方だ。
しかも、より恐ろしいことには、今回の犯人が「遠い国の昔のナチス」というより「この国の今の風潮」に影響されていると考えられることだ。
我々の社会に、税金を使う社会的弱者は邪魔だという考えが、隠然と、また次第に公然と語られるようになっている。17年前に当時の都知事が療育センター視察後に、「ああいう人ってのは人格あるのかね」と発言したことを思い出す。その都知事は、圧倒的人気で三選を果たした。近隣の国の人への差別発言も繰り返した人でもあったが、そういう人が人気を集めるのである。犯人の語っていた「障害者一人にこんなに金がかかる」という発想は、国の基本的方向(障害者自立支援法に見られるような福祉削減)には符合している。彼が衆議院議長に向けて、政府の作戦の実行役を引き受けます、安倍首相に伝えてください、と書いていたことは、象徴的ではないか。彼は犯行後 beautiful Japan!!!!(美しい日本)とツイートしたという。
「金を食う障がい者や高齢者は長生きしようなどと思うな」という考えはそこかしこで表明されている。そんな現実の中で、我々はどこに立つか。今日のみことばの土台に立たねばならない。社会がどんなに変わろうと、経済が良くても悪くても、絶対に変わらない土台である。
神は愛である。神につくられたから人間は愛によって生きる。神の愛が人のうちに宿っている。神を愛することは神の掟を守ることであり、それは神の子供たちを愛することだ。聖書に「尊厳」という語は出てこないが、語っているのは、神が人間に尊厳を与え給うた、それを守れ、ということである。神はみことばによってすべての者を創造し、「良し」とされたのである。
この尊厳を守っていくのは簡単ではない。関わる人たちの日々の労苦がある。でもそれは社会の皆が支えるべき労苦である。社会が社会として認め、優先すべき労苦である。人間が人間らしく生きていくための尊い労苦である。原子力や軍事や巨大工事に巨費を投じて、福祉予算を削る・・・人の欲は、とんでもない本末転倒を引き起こしている。神の与えてくださった尊厳を売り払ってはいけない。
神を愛する者は、人間の尊厳を守る。我々はこのことを、言葉や様々な表現によって、そして何より行動を通して表明していかなければならない。