2016年 06月 27日
説教要旨「ヘイト満ちる中で」 |
2016年6月19日の礼拝
説教「ヘイト満ちる中で」 荒瀬牧彦牧師
(旧約)ヨナ書4章1-11節
(新約)エフェソ2章11-22節
悪の都ニネベの人々は、預言者ヨナが告げた「あと40日でこの都は滅びる」という言葉を聞いて、心から悔い改めた。すると「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」。ヨナはそのことに不満で、強い怒りを抱いた。ヨナ書は、船や大魚の織り成す楽しい物語というより、ヨナの怒りの物語である。ヨナはニネベを憎んでいたのだ。あんなひどいニネベのことを、悔い改めたからといって赦してしまう、寛容で慈しみ深い神を、ヨナは拒絶する。
神はそんな頑ななヨナに、強い日差しを遮ってくれる「とうごまの木」を与え、そして取り去る。日蔭を失って、いよいよ死にたくなるヨナ。そこで神はヨナに言われる。「あなたは自分で植えたわけでもない、一晩で生えてきたあのとうごまの木のことだって、これだけ惜しんでいるではないか。ならばどうしてわたしが、12万人以上の右も左もわきまえないニネベの人々や、その家畜のことを惜しまずにいられるだろうか。」
この言葉をもってヨナ書はいきなり終わってしまう。果たしてヨナの心は変わったのか、いよいよ意固地になったのか。この物語は結末を語らない。オープン・エンディングだ。お前はどうするのだと、読む者にボールを投げるのである。
ヨナ書は、「外国人を追放しろ」という排外主義を背景に書かれた。人々が不寛容になる時代というのがある。我々も今まさに、そんな悪い時代に直面しているのではないか。不寛容と怒りが満ちているこの世界の現実を思いつつエフェソの2章を読まなければならない。「実にキリストはわたしたちの平和であります」と謳い、キリストが「敵意という隔ての壁を取り壊して」くださったと説く聖書のことばを我々はどう聞くのだろう。
世界のあちらこちらで「外国人排斥」への火種が燻っている。日本にもヘイト・スピーチの蔓延という悲しい現実がある。人間には、不安や不満が高じてくると、自分とは異なる少数者を「悪者」として、それを怒りの矛先とするという傾向があるようだ。しかもそれを、自分たちの宗教や思想信条を使って正当化することさえあるのだ。
最近、米国の友人が紹介していた印象的な言葉がある。「もしあなたの宗教が、他者を憎むことをあなたに求めるなら、あなたには新しい宗教が必要だ。」どうだろう?わたしたちには新しい宗教が必要だろうか。別の信仰が必要だろうか。いや、そうではない。キリストは和解をもたらすために来られたのだ。キリストの福音にこそ立ち帰ろう。
教会は初めから象徴的な存在だった。ユダヤ人と異邦人がその隔てを取り除かれて、同じ人間として一つの共同体を作る。外国人・よそ者を排斥する壁が、キリストによって打ち壊され、一つの神の家族が生まれる。教会は、神の国のしるしとして置かれている。その本質にふさわしい振る舞いが必要である。キリスト者の務めは、人と人との間に壁を作ることではない。和解のために働くことにあるのだ。
説教「ヘイト満ちる中で」 荒瀬牧彦牧師
(旧約)ヨナ書4章1-11節
(新約)エフェソ2章11-22節
悪の都ニネベの人々は、預言者ヨナが告げた「あと40日でこの都は滅びる」という言葉を聞いて、心から悔い改めた。すると「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」。ヨナはそのことに不満で、強い怒りを抱いた。ヨナ書は、船や大魚の織り成す楽しい物語というより、ヨナの怒りの物語である。ヨナはニネベを憎んでいたのだ。あんなひどいニネベのことを、悔い改めたからといって赦してしまう、寛容で慈しみ深い神を、ヨナは拒絶する。
神はそんな頑ななヨナに、強い日差しを遮ってくれる「とうごまの木」を与え、そして取り去る。日蔭を失って、いよいよ死にたくなるヨナ。そこで神はヨナに言われる。「あなたは自分で植えたわけでもない、一晩で生えてきたあのとうごまの木のことだって、これだけ惜しんでいるではないか。ならばどうしてわたしが、12万人以上の右も左もわきまえないニネベの人々や、その家畜のことを惜しまずにいられるだろうか。」
この言葉をもってヨナ書はいきなり終わってしまう。果たしてヨナの心は変わったのか、いよいよ意固地になったのか。この物語は結末を語らない。オープン・エンディングだ。お前はどうするのだと、読む者にボールを投げるのである。
ヨナ書は、「外国人を追放しろ」という排外主義を背景に書かれた。人々が不寛容になる時代というのがある。我々も今まさに、そんな悪い時代に直面しているのではないか。不寛容と怒りが満ちているこの世界の現実を思いつつエフェソの2章を読まなければならない。「実にキリストはわたしたちの平和であります」と謳い、キリストが「敵意という隔ての壁を取り壊して」くださったと説く聖書のことばを我々はどう聞くのだろう。
世界のあちらこちらで「外国人排斥」への火種が燻っている。日本にもヘイト・スピーチの蔓延という悲しい現実がある。人間には、不安や不満が高じてくると、自分とは異なる少数者を「悪者」として、それを怒りの矛先とするという傾向があるようだ。しかもそれを、自分たちの宗教や思想信条を使って正当化することさえあるのだ。
最近、米国の友人が紹介していた印象的な言葉がある。「もしあなたの宗教が、他者を憎むことをあなたに求めるなら、あなたには新しい宗教が必要だ。」どうだろう?わたしたちには新しい宗教が必要だろうか。別の信仰が必要だろうか。いや、そうではない。キリストは和解をもたらすために来られたのだ。キリストの福音にこそ立ち帰ろう。
教会は初めから象徴的な存在だった。ユダヤ人と異邦人がその隔てを取り除かれて、同じ人間として一つの共同体を作る。外国人・よそ者を排斥する壁が、キリストによって打ち壊され、一つの神の家族が生まれる。教会は、神の国のしるしとして置かれている。その本質にふさわしい振る舞いが必要である。キリスト者の務めは、人と人との間に壁を作ることではない。和解のために働くことにあるのだ。
by boxy-diary
| 2016-06-27 08:10
| 礼拝説教の要旨