2015年 11月 26日
言葉と上下関係 |
ある団体で書記という面倒くさい役割を引き受けているために、面倒くさい(が、結構重要な)議事録を作った。草稿を事務局に点検してもらったところ、大会開催準備のため、その会議に特別に来てもらった大会実行委員について「陪席者」としているが、過去の会議で「陪席というのは、身分の高い人と同席することを意味するので、いかがなものか」という議論があった、という指摘を受けた。
(しっかりとした事務局スタッフがいると大変ありがたい。僕もきっとその場にいたんだろうが覚えていない・・・ 汗)
「陪席」はやめにして、単に「大会実行委員」とした。
書記にとって重要なのは、議決権のある委員と、オブザーバー・意見参考人として加わって頂いた方の区別をつけることなので、参加資格を明瞭にしておけば問題はない。事務局の方を毎回わずらわせるのも悪いから、これからはこれで一貫しよう。
でも考えた。
目上とか目下とかいう上下関係をまったく意図していない平等な関係の中で、「陪席」を使うのは不適切なことなのだろうか。その用語の歴史的用法が背負っている上下関係に、われわれはどこまで縛られるのだろうか。
僕の関わってきた教会関係の会議においては、「陪席」という用語がわりと普通に使われている。その中で育ってきたせいか、この用語から「上」とか「下」を一切連想したことはない。僕にとっては、通常の会議構成員(議決権を持つ者)か、そうでないかを区別するための便利な言葉である。組織の中でわれわれは執行部を作ったり、〇〇委員会を作ったりするが、その構成員に選ばれた人と、選んだ側にいる人の間には、職責の委任関係があるだけであって、上下はない。(と、僕は考える。)
確かに、その昔テレビか何かで、「陪」という漢語には「下のものが上のもののお伴をする、補佐する」といった意味があって、「陪席」は上位の者のいるところに下位の者が列席するという意味になるのだ、と聞いたことがあるが、「へえ、そうなのか」と思っただけである。しかし、もっと日本語に精通していて、言葉の「正しい」用法を重んじる人にとっては、「あなたは陪席者です」と言われることは、「お前を特別に俺たちの会議の御相伴にあずからせてやるぞ」と言われたような、侮辱された感情を引き起こすものなのだろう。
言葉って難しい。
つい最近、こんなニュースがあった。
大阪府知事選の投票所で投票管理者を殴るなどしたとして、大阪府警は23日、公職選挙法違反(投票管理者への暴行等)容疑で大阪府茨木市の会社員の男(47)を逮捕した。 ・・・ 逮捕容疑は22日午後7時45分ごろ、市内の投票所で机をひっくり返した上、投票管理者の70代男性の左側頭部を右手で1回平手打ちにし、「机の角を脳天に突き刺すぞ」などと脅迫したとしている。
府警によると、男は投票管理者が投票に訪れた有権者に「ご苦労さんです」と声をかけていたことに激高。「『ご苦労さんです』という言葉は目上の者に使う言葉ではない。俺は大阪府民として当然の権利を行使してるんや。謝れ」などと因縁を付けたという。
まあ、この男の働いた暴力は言語道断で、あまりに馬鹿なことだろうが、その背景には最近またよく言われるようになった、「ご苦労様」は目上の者が目下の者にかける言葉であって、下の者が上の者に使うのは大変無礼なことである という日本語ルールがあると思われる。
ちなみに僕は昔、「下の人は上の人にご苦労様ではなく、お疲れ様というのだ」と教えられたのだが、最近よく聴くのは、「いや、お疲れ様だって元々は上の者が下の者にかける言葉だ」である。厳密に言えば、お疲れ様もだめ。でも、他にぴたりとくる言葉もないから、お疲れ様はまあ大目に見よう、ということらしい。
日本語の難しさの一つは、話し手が絶えず上下関係を意識して、相手に応じて細部に至るまで言葉を使い分けなければいけないということだ。
「ああ、大変なお仕事をしてくださって有り難いなあ。偉いなあ。ご苦労様だなあ」と思ったとしても、そういう自分の思いや感情より、歴史的用法が優先する。「ご苦労様」といったらその思いは伝わらず、上下関係を示唆するメッセージとして受け取られてしまい、下手をすると「お前は私を目下だと思っているのか」と怒りを誘発してしまう。
やれやれ、日本語を「正しく」「歴史的用法をふまえて」使うってことは、関係の中にいつも序列をつけている犬みたいになるってことなのかな。いつも序列、順位を気にしていなきゃならない。
「陪席」という言葉ひとつでも、上か下かということで問題になる。めんどくさいこっちゃ。
少なくとも僕の中では、「陪席」はそういった過去のしがらみからは解き放れている。しかしすべての人にとってそうであるわけではない。ほんとにめんどくさいこっちゃ。
現実が言葉の意味を変えていくということがある。人と人とが社会的な序列によってではなく、一個の人間同士として出会い、互いを認め合い、敬い合う関係を築いていく。その現実を築くことによって、言葉を過去のしがらみから解放していくことを僕は望む。
他方、言葉が現実を変えていくという側面もある。家父長的な歴史をあまりにも重く引きずった言葉を使わずに、他の言葉に置き換えていく、もっと良い言葉を探していく、ということも必要だ。
たとえば、妻のことを「奥様」と呼ぶこと。夫を「ご主人様」と呼ぶこと。
「陪席」を使うことを問題だとは思わないと言ったこととは矛盾するようだが、奥様やご主人様には大いに抵抗があり、僕は使わない。言葉が悪く作用する例だと思うから。
ああ、いよいよめんどくさいこっちゃ。
(しっかりとした事務局スタッフがいると大変ありがたい。僕もきっとその場にいたんだろうが覚えていない・・・ 汗)
「陪席」はやめにして、単に「大会実行委員」とした。
書記にとって重要なのは、議決権のある委員と、オブザーバー・意見参考人として加わって頂いた方の区別をつけることなので、参加資格を明瞭にしておけば問題はない。事務局の方を毎回わずらわせるのも悪いから、これからはこれで一貫しよう。
でも考えた。
目上とか目下とかいう上下関係をまったく意図していない平等な関係の中で、「陪席」を使うのは不適切なことなのだろうか。その用語の歴史的用法が背負っている上下関係に、われわれはどこまで縛られるのだろうか。
僕の関わってきた教会関係の会議においては、「陪席」という用語がわりと普通に使われている。その中で育ってきたせいか、この用語から「上」とか「下」を一切連想したことはない。僕にとっては、通常の会議構成員(議決権を持つ者)か、そうでないかを区別するための便利な言葉である。組織の中でわれわれは執行部を作ったり、〇〇委員会を作ったりするが、その構成員に選ばれた人と、選んだ側にいる人の間には、職責の委任関係があるだけであって、上下はない。(と、僕は考える。)
確かに、その昔テレビか何かで、「陪」という漢語には「下のものが上のもののお伴をする、補佐する」といった意味があって、「陪席」は上位の者のいるところに下位の者が列席するという意味になるのだ、と聞いたことがあるが、「へえ、そうなのか」と思っただけである。しかし、もっと日本語に精通していて、言葉の「正しい」用法を重んじる人にとっては、「あなたは陪席者です」と言われることは、「お前を特別に俺たちの会議の御相伴にあずからせてやるぞ」と言われたような、侮辱された感情を引き起こすものなのだろう。
言葉って難しい。
つい最近、こんなニュースがあった。
大阪府知事選の投票所で投票管理者を殴るなどしたとして、大阪府警は23日、公職選挙法違反(投票管理者への暴行等)容疑で大阪府茨木市の会社員の男(47)を逮捕した。 ・・・ 逮捕容疑は22日午後7時45分ごろ、市内の投票所で机をひっくり返した上、投票管理者の70代男性の左側頭部を右手で1回平手打ちにし、「机の角を脳天に突き刺すぞ」などと脅迫したとしている。
府警によると、男は投票管理者が投票に訪れた有権者に「ご苦労さんです」と声をかけていたことに激高。「『ご苦労さんです』という言葉は目上の者に使う言葉ではない。俺は大阪府民として当然の権利を行使してるんや。謝れ」などと因縁を付けたという。
まあ、この男の働いた暴力は言語道断で、あまりに馬鹿なことだろうが、その背景には最近またよく言われるようになった、「ご苦労様」は目上の者が目下の者にかける言葉であって、下の者が上の者に使うのは大変無礼なことである という日本語ルールがあると思われる。
ちなみに僕は昔、「下の人は上の人にご苦労様ではなく、お疲れ様というのだ」と教えられたのだが、最近よく聴くのは、「いや、お疲れ様だって元々は上の者が下の者にかける言葉だ」である。厳密に言えば、お疲れ様もだめ。でも、他にぴたりとくる言葉もないから、お疲れ様はまあ大目に見よう、ということらしい。
日本語の難しさの一つは、話し手が絶えず上下関係を意識して、相手に応じて細部に至るまで言葉を使い分けなければいけないということだ。
「ああ、大変なお仕事をしてくださって有り難いなあ。偉いなあ。ご苦労様だなあ」と思ったとしても、そういう自分の思いや感情より、歴史的用法が優先する。「ご苦労様」といったらその思いは伝わらず、上下関係を示唆するメッセージとして受け取られてしまい、下手をすると「お前は私を目下だと思っているのか」と怒りを誘発してしまう。
やれやれ、日本語を「正しく」「歴史的用法をふまえて」使うってことは、関係の中にいつも序列をつけている犬みたいになるってことなのかな。いつも序列、順位を気にしていなきゃならない。
「陪席」という言葉ひとつでも、上か下かということで問題になる。めんどくさいこっちゃ。
少なくとも僕の中では、「陪席」はそういった過去のしがらみからは解き放れている。しかしすべての人にとってそうであるわけではない。ほんとにめんどくさいこっちゃ。
現実が言葉の意味を変えていくということがある。人と人とが社会的な序列によってではなく、一個の人間同士として出会い、互いを認め合い、敬い合う関係を築いていく。その現実を築くことによって、言葉を過去のしがらみから解放していくことを僕は望む。
他方、言葉が現実を変えていくという側面もある。家父長的な歴史をあまりにも重く引きずった言葉を使わずに、他の言葉に置き換えていく、もっと良い言葉を探していく、ということも必要だ。
たとえば、妻のことを「奥様」と呼ぶこと。夫を「ご主人様」と呼ぶこと。
「陪席」を使うことを問題だとは思わないと言ったこととは矛盾するようだが、奥様やご主人様には大いに抵抗があり、僕は使わない。言葉が悪く作用する例だと思うから。
ああ、いよいよめんどくさいこっちゃ。
by boxy-diary
| 2015-11-26 10:24
| 雑感