説教要旨「重荷を負う方法」 |
「重荷を負う方法」
ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節
アフリカのことわざとして言い広められている言葉がある。
「急いで行きたいなら、一人で行きなさい。遠くまで行きたいなら、一緒に行きなさい。」 If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.
現代社会が、そして我々教会が聴くべき名言ではないか。ちょっと急ぎの買物をしてくるのなら一人で行けばよい。でも目的地をめざして遠くまで旅をするのなら――神の国へと向かうのなら――共に行かなければ辿り着けない。
しかし、一緒に行くというのは、口で言うのは簡単だが、実際にそれをするのには大きな困難が伴う。大勢いれば歩くペースが大いに異なる。脇道にそれつつ歩きたい人もいれば、脇目もふらずという人もいる。勤勉な人もいれば、怠け癖のある人もいる。一緒に行くのは本当に大変だ。
ガラテヤの教会では既に問題が起きていたようだ。「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」。聖霊に導かれているなら、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という実が生まれているはずだ。しかし肉の思いに導かれているために、「私が上だ、あなたは下だ」という不毛な競争心が生まれ、怒りや妬みが支配している。信仰熱心な人たちが、それほど熱心でない、弱さを抱えた人たちを断罪する。他者を見下す強圧的な態度がうまれている。
誰かが道を踏み外して問題を起こしてしまっている時、どうするか。「お前はだめだ」という優越感の上に乗った関わりは、友を助けることはできない。パウロは、「柔和な心で正しい道に立ち帰らせない」という。「柔和」は、福音書がイエスを形容するのに使う言葉である。イエスが罪人の家を訪ねて一緒に食事をし、語りかけ、手を取り、道を共に歩き・・・・そうやってその人を立ち直らせる。優しくて、しかし芯の通った態度。それが柔和である。その際、あなた自身も道に迷う弱さを抱えているということを忘れるな、とパウロは言う。自分の危うさを踏まえた上で、「一緒に戻ろう」という。それが、「互いに重荷を担う」こと。それが教会のやり方だ。「遠くまで一緒に行くのなら、互いに重荷を担い合いなさい」である。
人に迷惑をかけるな、が我々の掟ではない。人の迷惑を我慢して甘受せよ、でもない。AさんがBさんの荷物を負い続け、BさんはAさんの力を貪り続け、というのでは長い道は行けない。Aさんが、Bさんの存在によって生かされているという側面も必ずあるのだ。それに気がつき、認めること。それが「キリストの律法を全うする」ことである。面白いことに、イエスはそういう仕方で、弱さとか「迷惑」さえ繋ぎ目にして、人と人とをつなぐのだ。
ところで「互いに重荷を担いなさい」(2節)と「めいめいが自分の重荷を担う」(5節)は矛盾してはいないか。いや、よく読んでみると矛盾していない。新共同訳では同じ言葉に訳しているが、ギリシア語では異なる単語だ。それぞれ異なる意味が込めてあるのだろう。
互いに担う重荷は「重さ」である。一人では運べない荷物のようなもの。めいめい自分で担う重荷は、思い切って意訳すれば「務め」とか「使命」だ。「あなたがた各人は、自分の人生でなし得る最善を創造する責任を引き受けねばならない」(新しい英語訳聖書The Messageを私訳したもの)。
あなたにしか生きられないあなたの人生を、最もいいものにしなさい、ということだ。いいかえれば、2節は今ここでの他者(仲間)との関係において、5節は終わりの日に問われる神様との関係において担う荷。この二つは矛盾することではない。二つが組み合わされたところで、わたしたちは長い道を歩いていくのである。