2014年 03月 06日
レントの40日 |
昨日(3月5日)は教会の暦では「灰の水曜日」でした。
この日から、受難節(四旬節・大斎節・レント)が始まります。
キリスト者は、イースター前の(祝いの日である日曜を除く)40日間を、主イエスの苦難をおぼえて、祈りと悔い改め、節制と克己に励む時として過ごします。
友人がこんな言葉を教えてくれました。
ヘンリ・ナウエンの言葉です。
"Our glory is hidden in our pain, if we allow God to bring the gift of himself in our experience of it."
わたしたちの栄光は、わたしたちの苦しみの中に隠されている。もしその苦しみを味わう中に、神が入ってきてくださり御自身を贈り物として与えてくださるのを、わたしたちが受け入れるのなら。
自分の苦しみの中に神を迎え入れる・・・ 今自分が直面している問題に照らしてみると、この言葉の意外性に圧倒され、そして希望と慰めを与えられます。
「灰の水曜日」ですが、礼拝学を学ぶ者として、ここ数年、この日のリタージー(礼拝儀式)がどのように行われているかに関心があり、異なる教派の灰の水曜日礼拝に出席しています。
今年は小金井聖公会の礼拝に参加させて頂き、額に十字のしるしを受けて帰ってきました。
(下の写真は僕ではありません・・・って言わなくてもわかるね。どこかの国のお嬢さんの画像を借りてきました。)
礼拝後にしばらく、菅原司祭や教会の方々とお茶をのみ歓談させて頂きましたが、テーブルを囲んでいる皆のおでこに黒い灰でくっきり十字架。もしそこに外から人が入ってきたら、「なんだ!この異様な集団は!」とビビってしまうでしょうね!
昨年はルーテル三鷹教会、一昨年はカトリック麹町教会(イグナチオ教会)の灰の水曜日礼拝/ミサに行ったのでした。テーマや、全体的なトーンは共通していますが、やはりそれぞれに特徴があり、強調点の違いがありますね。昨日の聖公会の式文では、自らの罪をみつめ、悔い、自らを支配しようとする諸々の欲から解放したまえと祈る・・・ という面が強く出ていて、いろいろなものに振り回されている(自ら浸っている?)私などには、胸にずしっとこたえる礼拝でした。
めぐみ教会では、毎週木曜に夕礼拝を守っていて、それを動かすことは難しいものですから、本日木曜夜の礼拝をレントの始まりをおぼえる礼拝としています。
今年は、日本聖書神学校キリスト教研究所発行の『礼拝の詞(ことば) 1』に収録されている「灰の水曜日」の式文を用いて行います。
明日(3月7日)の夜には、聖書神学校で、その本の出版記念講習会があり、そこでは同じ「灰の水曜日」の礼拝を行ってみることになっています。まずは自分の教会でやってみます。
(その礼拝の前に、僕が短く、この本の意義と使い方についてお話しする予定です。)
この日から、受難節(四旬節・大斎節・レント)が始まります。
キリスト者は、イースター前の(祝いの日である日曜を除く)40日間を、主イエスの苦難をおぼえて、祈りと悔い改め、節制と克己に励む時として過ごします。
友人がこんな言葉を教えてくれました。
ヘンリ・ナウエンの言葉です。
"Our glory is hidden in our pain, if we allow God to bring the gift of himself in our experience of it."
わたしたちの栄光は、わたしたちの苦しみの中に隠されている。もしその苦しみを味わう中に、神が入ってきてくださり御自身を贈り物として与えてくださるのを、わたしたちが受け入れるのなら。
自分の苦しみの中に神を迎え入れる・・・ 今自分が直面している問題に照らしてみると、この言葉の意外性に圧倒され、そして希望と慰めを与えられます。
「灰の水曜日」ですが、礼拝学を学ぶ者として、ここ数年、この日のリタージー(礼拝儀式)がどのように行われているかに関心があり、異なる教派の灰の水曜日礼拝に出席しています。
今年は小金井聖公会の礼拝に参加させて頂き、額に十字のしるしを受けて帰ってきました。
(下の写真は僕ではありません・・・って言わなくてもわかるね。どこかの国のお嬢さんの画像を借りてきました。)
礼拝後にしばらく、菅原司祭や教会の方々とお茶をのみ歓談させて頂きましたが、テーブルを囲んでいる皆のおでこに黒い灰でくっきり十字架。もしそこに外から人が入ってきたら、「なんだ!この異様な集団は!」とビビってしまうでしょうね!
昨年はルーテル三鷹教会、一昨年はカトリック麹町教会(イグナチオ教会)の灰の水曜日礼拝/ミサに行ったのでした。テーマや、全体的なトーンは共通していますが、やはりそれぞれに特徴があり、強調点の違いがありますね。昨日の聖公会の式文では、自らの罪をみつめ、悔い、自らを支配しようとする諸々の欲から解放したまえと祈る・・・ という面が強く出ていて、いろいろなものに振り回されている(自ら浸っている?)私などには、胸にずしっとこたえる礼拝でした。
めぐみ教会では、毎週木曜に夕礼拝を守っていて、それを動かすことは難しいものですから、本日木曜夜の礼拝をレントの始まりをおぼえる礼拝としています。
今年は、日本聖書神学校キリスト教研究所発行の『礼拝の詞(ことば) 1』に収録されている「灰の水曜日」の式文を用いて行います。
明日(3月7日)の夜には、聖書神学校で、その本の出版記念講習会があり、そこでは同じ「灰の水曜日」の礼拝を行ってみることになっています。まずは自分の教会でやってみます。
(その礼拝の前に、僕が短く、この本の意義と使い方についてお話しする予定です。)
by boxy-diary
| 2014-03-06 10:40
| 行事