2011年 07月 27日
スナフキンとミーの関係 |
今朝はじめて知ったこと。
スナフキンとミーは兄妹だったのか!
それからもう一つ。
ニョロニョロというのは、種を蒔いて発芽させるものだったんだね・・・
ムーミンファンの方々にとっては「当然知っておくべきこと」なんだろうけど(笑)
(情報源 BSプレミアムで7:45から再放送でやってた「ムーミン谷」に関する番組)
スナフキンとミーは、公園を規則だらけの窮屈なところにしてしまった意地悪管理人に対して、ニュロニュロの種を蒔くという愉快な抵抗に出る。なるほど。
しかし、ここから連想がオスロでの痛ましい事件のほうにいってしまった。
突然、ゆえなく射殺された方々の不条理な死を覚え、言葉を失う。主よ。
真偽は確かめていないが、犯人は、熱心なキリスト者ではないものの、文化的な意味で自分をキリスト教に属するものと認識していたとのこと。「キリスト教原理主義」という言葉が使われている報道を目にした。
今回の事件は、やったことがあまりに無茶苦茶で、他の一般的な「原理主義」の問題とは異なるかもしれないが、犯人の理屈の中では、自分の宗教と今回の行動がつながっているのだろう。
イエスの示した道は、「原理主義」的な硬直から人を解放させるもの。そう僕は理解している。
しかし、キリスト教のうちにも原理主義的な勢力は根強く存在し、それを克服することができないでいる。これはキリスト教に限ったことではなく、イスラムやヒンズー教においてもこの問題は深刻だ。(その点、日本の多神教は良い、とは考えないように。国家神道という強烈な原理主義の実績があるのだから。)
宗教や国の違いを問わず、どの集団にも、強く排外的な姿勢を持つ人たちが一定の割合存在するのだと思う。その人たちが宗教や何らかの思想を自己正当化に用いた時、それが原理主義的なものになるのではないだろうか。自分にとって異物と感じられる他者が目についてくると、その台頭によって自分の集団の存在が脅かされるという苛立ちや不安に駆られ、「愛国」の名のもとに排外主義を唱え、暴力的な行動に出る。
原理主義の問題に対するのにまず大事なことは、不安や苛立ちを強く感じる人たちが一定の割合存在する、という事実を認めることではないか。その人たちに対して、リベラルな言説はまったく効果をもたない。そればかりか、余計に神経を逆撫でし、思想や行動を先鋭化させるという負の効果を発揮してしまう。
具体的にどうすればよいのかよくわからないけれど、根本的な解決策は、「安心を与えること」しかないのではないか、と最近考えるようになった。
自分も、自分とは異なる他者も、ここで一緒に生きていくことができる。隅に追い詰められることはない。消されることはない。否定されることはない。私もあなたも、ここで安心して生きていくことができる。人を責めなくても、人を見下さなくても、私は尊厳をもって生きていくことができる。そう感じられる「安心」をどうしたら共有できるのか。
ネット上で、韓国や中国の人たちへの軽蔑や敵意をあらわにしている書き込みをみると、ああこの人たちは不安なのだ、と思う。不安からくる苛立ちに、油が注がれ、何かの拍子に火がついてしまったら、予想もしなかったようなひどことだって起こる。
主イエスは僕らに、神の大きくて広い愛に抱かれている自分を発見させてくれた。そこからキリスト教信仰がはじまったはずだ。
なのにどうして、「キリスト教」が他者を排撃する基盤に用いられてしまうのか。人間は本当に難しい。人の罪は本当に深い。
ところで、スナフキンとミーのゲリラ作戦はどういう結果をもたらしたのかな。
(ちょうどそこで部屋を出てしまったので、その先は見なかった!)
排外主義に凝り固まっている管理人の「心」はかえられたのだろうか。
ニョロニョロがあのおかしなユルユルさで、ガードをガチガチにかためた人の、その奥底にある不安と苛立ちを溶かしてくれたのならいいのだけど。
ユーモアとか笑いって大事だ。
音楽とか美術とかって大事だ。
そう考えると、ムーミンってすばらしいな。
ムーミンの物語を世界中の人たちと鑑賞して、語り合えたら、少しは不安を減らせるかもしれない。
ムーミン谷のメルヘンの世界から、殺伐とした世界のことへと思考がとんでしまった。読んでくださった皆さん、重い話題になってしまってごめんなさい。
スナフキンとミーは兄妹だったのか!
それからもう一つ。
ニョロニョロというのは、種を蒔いて発芽させるものだったんだね・・・
ムーミンファンの方々にとっては「当然知っておくべきこと」なんだろうけど(笑)
(情報源 BSプレミアムで7:45から再放送でやってた「ムーミン谷」に関する番組)
スナフキンとミーは、公園を規則だらけの窮屈なところにしてしまった意地悪管理人に対して、ニュロニュロの種を蒔くという愉快な抵抗に出る。なるほど。
しかし、ここから連想がオスロでの痛ましい事件のほうにいってしまった。
突然、ゆえなく射殺された方々の不条理な死を覚え、言葉を失う。主よ。
真偽は確かめていないが、犯人は、熱心なキリスト者ではないものの、文化的な意味で自分をキリスト教に属するものと認識していたとのこと。「キリスト教原理主義」という言葉が使われている報道を目にした。
今回の事件は、やったことがあまりに無茶苦茶で、他の一般的な「原理主義」の問題とは異なるかもしれないが、犯人の理屈の中では、自分の宗教と今回の行動がつながっているのだろう。
イエスの示した道は、「原理主義」的な硬直から人を解放させるもの。そう僕は理解している。
しかし、キリスト教のうちにも原理主義的な勢力は根強く存在し、それを克服することができないでいる。これはキリスト教に限ったことではなく、イスラムやヒンズー教においてもこの問題は深刻だ。(その点、日本の多神教は良い、とは考えないように。国家神道という強烈な原理主義の実績があるのだから。)
宗教や国の違いを問わず、どの集団にも、強く排外的な姿勢を持つ人たちが一定の割合存在するのだと思う。その人たちが宗教や何らかの思想を自己正当化に用いた時、それが原理主義的なものになるのではないだろうか。自分にとって異物と感じられる他者が目についてくると、その台頭によって自分の集団の存在が脅かされるという苛立ちや不安に駆られ、「愛国」の名のもとに排外主義を唱え、暴力的な行動に出る。
原理主義の問題に対するのにまず大事なことは、不安や苛立ちを強く感じる人たちが一定の割合存在する、という事実を認めることではないか。その人たちに対して、リベラルな言説はまったく効果をもたない。そればかりか、余計に神経を逆撫でし、思想や行動を先鋭化させるという負の効果を発揮してしまう。
具体的にどうすればよいのかよくわからないけれど、根本的な解決策は、「安心を与えること」しかないのではないか、と最近考えるようになった。
自分も、自分とは異なる他者も、ここで一緒に生きていくことができる。隅に追い詰められることはない。消されることはない。否定されることはない。私もあなたも、ここで安心して生きていくことができる。人を責めなくても、人を見下さなくても、私は尊厳をもって生きていくことができる。そう感じられる「安心」をどうしたら共有できるのか。
ネット上で、韓国や中国の人たちへの軽蔑や敵意をあらわにしている書き込みをみると、ああこの人たちは不安なのだ、と思う。不安からくる苛立ちに、油が注がれ、何かの拍子に火がついてしまったら、予想もしなかったようなひどことだって起こる。
主イエスは僕らに、神の大きくて広い愛に抱かれている自分を発見させてくれた。そこからキリスト教信仰がはじまったはずだ。
なのにどうして、「キリスト教」が他者を排撃する基盤に用いられてしまうのか。人間は本当に難しい。人の罪は本当に深い。
ところで、スナフキンとミーのゲリラ作戦はどういう結果をもたらしたのかな。
(ちょうどそこで部屋を出てしまったので、その先は見なかった!)
排外主義に凝り固まっている管理人の「心」はかえられたのだろうか。
ニョロニョロがあのおかしなユルユルさで、ガードをガチガチにかためた人の、その奥底にある不安と苛立ちを溶かしてくれたのならいいのだけど。
ユーモアとか笑いって大事だ。
音楽とか美術とかって大事だ。
そう考えると、ムーミンってすばらしいな。
ムーミンの物語を世界中の人たちと鑑賞して、語り合えたら、少しは不安を減らせるかもしれない。
ムーミン谷のメルヘンの世界から、殺伐とした世界のことへと思考がとんでしまった。読んでくださった皆さん、重い話題になってしまってごめんなさい。
by boxy-diary
| 2011-07-27 09:11
| 今この世界で