「行きなさい 生きなさい」6月5日めぐみ教会説教Summary |
「行きなさい 生きなさい」
マタイによる福音書28章16-20節
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに
父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたこ
とをすべて守るように教えなさい。」
「大宣教命令」といわれるこの言葉は、教会の宣教の起点であり続けてきた。聖書研究には執筆背景(過去からの流れ)を知るのが不可欠だが、テキストが書かれて後どう読まれ、どう実践されてきたかという影響の歴史を知ることも大切だ。影響史という観点でみると、この箇所は、後の教会を突き動かしてきたという意味で極めて重要である。我々が現代の日本で洗礼の恵みに授かったのも、2千年近くの間、この御言葉を生きてきた幾多の人たちがいたからに他ならない。
しかしその宣教の歴史には負の側面もある。『ミッション』という映画を御覧になっただろうか。宣教が、植民地獲得競争に邁進する為政者や事業家たちと手を携えて行われたという闇がそこにある。宣教の歴史をすべて美化するわけにはいかない。人間は良いこと美しいことをする時にもそこに悪を混入させてしまう。それが罪深き人間の現実だ。
では、人の欲から自由であることができず、醜い不純なものがまとわりついてしまうのなら、宣教などしないほうがよいのか。ボロが出るなら初めからやらないほうがましなのか。それは聖書の考え方ではないと思う。また、間違えてもよいと開き直るのも聖書的思考ではない。間違えてしまう。しかしその度に、悔い改め、打ち砕かれ、イエスの召しという起点に立ち帰ってやり直す。それが聖書に記されている神と民との関係である。なぜなら神様はあきらめない神であり、失敗者に再起の機会を与えてくださる御方だから。
実は、最初から弟子たちの間に問題は存在していたのである。宣教命令が与えられたまさにその場面に、「(弟子たちは)イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と書いてある。復活の主にお会いできたという感動的な場面であるのに、なお疑う者がいたのである。なんという鈍さ。人間への愛のゆえに死に、そして死に打ち勝たれたイエス様に対して、なんという心無い反応か。しかし、主イエスは、そこから始めてくださる。疑いを内包する群れに「近寄ってきて」、この問題多き人々に大切な福音宣教を託されたのである。「疑う者もいた」というのは、偶々少しの不心得者がいたということでなく、本質的な問題であり、我々もこの問題を抱えている。これは「疑いがあって当然」と開き直ってよいことではなく、克服していかなければならないことだ。
どう克服するのか。主は「行きなさい」といって弟子たちを現場に遣わしたのである。疑う者も遣わされたのである。彼らは行って、伝え、洗礼を施し、主の教えによって生きるよう人々の間で働いた。そこで、主の約束が効いてくるのである。そう、主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださった。
宣教の現場において、主イエスが共にいてくださる。神の御業がそこに起こる。その現実が、それだけが疑いを克服させていく。それが道なのである。主イエスの「行きなさい」というのは、「生きなさい」ということ。<行って、神が与えてくださる出会いの中で生きてごらん。神のなさることの中に身を置いてごらん。>イエス様が「しかし、疑う者もいた」弟子たちに示したのはそういう道だったのである。