2011年 04月 14日
保育園分園「りんごの木」開園式 |
世田谷区にナオミ保育園の新しい分園「りんごの木」が誕生した。僕は、上北台こひつじ保育園を通して、社会福祉法人ナオミの会に関わりをもつようになっていて、その関係から、9日に行われた開園式の司式をさせていただいた。
場所は野毛にある公園の一角。昨年11月に起工式のために来た時には公園の隅っこの草っぱらだった土地に、想像していたより大きな建物がたっていた。素敵な保育園だ。
開園式 説教 「私はりんごの木を植える」
3月11日以降、私たちの社会は大きく揺さぶられている。心落ち着かない中である。小さい子どもたちを預かる保育園関係の皆さんにとっても、神経を使う日々が続いていると思う。この新しい分園の開設準備に関わってこられた方々には、大変なご労苦やご心配がおありであったことと想像する。こうやって無事に開園式ができることを、神様に心から感謝したい。
こういう中であるからこそ、今回開設させる分園が「りんごの木」と名づけられていることの意味の深さを思わずにおれない。とても良い名前がつけられたと思う。
「りんごの木」という命名をきいて、聖書との結びつきで連想したことは、ひとつは、申命記32章10節、神様がイスラエルを荒れ野で見出し、「これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」というところである。「御自分のひとみ」というのは英語の聖書で読むと、「the apple of his eye」。He guarded him as the apple of his eyeとなっている。私の教会の教会学校は、ここから取って「アップル」という名前である。神が御自分の瞳のように慈しんでくださる「りんご」である。
もう一つの連想は、一般にも知られている言葉であると思うが、「たとえ明日世の終わりが来るとしても、今日わたしは、りんごの木を植える」。
しばしば宗教改革者マルチン・ルターの言葉として紹介されるけれど、ルターが言ったという証拠は見当たらないようだ。しかし、誰か他の人が言ったにせよ、聖書の考え方からはずれている言葉ではないと思う。イエス様の弟子たちが、世の終わりについて「いつ来るのですか」としきりに尋ねた時、イエス様は、「その日、その時はだれも知らない」と言われた。そして「いつ終わりの時がきても良いように、今を生きなさい」という趣旨のことをいわれた。言い換えれば、一日一日を終わりの日として、今日なすべきことを落ち着いて、しっかりとなす、ということである。
だから今のように先行きの見えない、不安で浮ついてしまいそうになる時こそ、未来のために今なしておくべきことをしっかりやる。いつ終わりの時がくるかは神様がお決めになることで、わたしたちは神が未来を与えてくださると信じて今日を一所懸命に生きること。
だから、今わたしは、子どもの世代、孫の世代、あるいはその後の世代のために、りんごの木を植える。木を植える、ということは希望をもって生きる、ということの表現。
「私はりんごの木を植える」という表現から興味をもって、今回わたしは「木を植える」という表現を聖書の中で検索してみた。アブラハムがぎょりゅうの木を植えて神様を礼拝した、というような興味深い箇所も出てきたが、より重要なこととしては、象徴的な意味で「木を植える」という表現が用いられる時、それは神様の行為。神の民を起こす、という意味で木を植える、という。つまり、わたしたちが庭に木を植えるように、神は人間という木を植えてくださる。
礼拝のはじめ、招詞に、イザヤ書の預言の一節を読んだ。
「荒れ野に杉やアカシヤを、ミルトスやオリーブの木を植え
荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。」
この預言は、バビロン捕囚という、イスラエルにとって一度国が滅んだようなどん底状態の中で語られたものである。すっかり荒れ野になった大地が広がっている。しかしわたしは木を植える。そして再び緑でこの地が覆われるようになる。そこに鳥が巣をつくり、さえずりが生まれる。
この預言を、今ここに立てられる「りんごの木」にあてはまるとどうなるだろう。
今、わたしたちの国は大変な中にある、暗い雲が空を覆っている。でも神様は、そういう中でも、こどもたちというりんごの木を植えてくださる。良いものとして、未来に豊かな実をもたらす、りんごの木を、愛をもって一本一本植えてくださる。立派に育っって、豊かな実をつけるようにと、強い意志をもって、木を植えてくださる、ということではなかろうか。
その子どもたちを守り、育てるのが、保育園の仕事である。(英語で保育園はナースリー。木やお花の苗を栽培して販売するお店のこともナースリーという。保育園は、庭師的な仕事ともいえるのだろう。)
もちろん、こどもの養育に中心的な働きをするのは家庭だ。家庭でこどもたちに愛が注がれなければならない。しかし、保育園に託されるこどもたちにとって、保育園で過ごす時間はどれだけ長く、また重いことだろう。保育園で過ごす時間で、人間の根幹が作られるのである。ならば、その保育に携わる人々は、最高最大の愛と知恵とエネルギーを注いで、その業に携わらなければならない。
私は牧師として、問題を抱えて悩んでいる人の相談に乗る時、もっぱら大人の問題に関わっているわけだが、その問題の根っこに幼児期の不幸な生育環境が関係していることが多いと感じる。人との関係を健全に作ることができないという悩みをもった人の多くが、自分を健全に愛せないでいる。あるいは、自己愛がとても歪んでいる。その場合、幼い時に、全面的に安心させてくれる受容的な愛をもらえなかったようだ、と考えられるケースが多いようだ。乳幼児期に、自分は愛されている、守られているということが経験できないと、何十歳になっても、人との信頼関係を築くのに大変な苦労をするのである。そんなことから、私は、最近ますます保育園の働きの重要性を思わされている。
わたしたちがどのように、りんごの木を守り、育てるか。その模範はイエス様が示してくださっている。
イエス様の時代、こどもは「大人」でない、一人前でないという理由で、随分と邪険に扱われていた。権利など認められない。どうとでも扱ってよい存在だった。だから、イエス様の弟子たちも、当時の価値観にしたがって、こどもが接近するのを阻止しようとしたのである。「先生は忙しいのだ。こどもになど構っている暇はない」。
しかしイエス様は「とめてはならない」と言った。そして幼子を呼び寄せて、抱き上げて、そして祝福された。そして、まさにその小さな子が、神の国にはいること、つまり神の愛の支配の中におかれることを宣言された。
あなたは神に愛されている大切な存在だ。神の祝福を受けるべき子だ。
キリスト教信仰に基づいてたてられたナオミの会の保育園は、本園も、こひつじ保育園も、ぶどうの木もりんごの木も、こどもたちに、「祝福」を告げるところでなくてはならない。
祝福というのは聖書のもとの言葉でいうと、「良いこと+言う」である。
あなたは素晴らしい。あなたは良いものとして神様に造られた。そして、あなたを通して、良いものが、喜びが、命がうみだされていくように神様はあなたに恵みをそそぐ。それが祝福。
人は祝福されなければならない。豊かに祝福を伝えられなければならない。ことばを通して、行動を通して、ハグを通して、手をつなぐことを通して。
りんごの木を神が植えてくださる。祝福を注いで、その木を守り育てる働きが、ここでなされていきますように!
場所は野毛にある公園の一角。昨年11月に起工式のために来た時には公園の隅っこの草っぱらだった土地に、想像していたより大きな建物がたっていた。素敵な保育園だ。
開園式 説教 「私はりんごの木を植える」
3月11日以降、私たちの社会は大きく揺さぶられている。心落ち着かない中である。小さい子どもたちを預かる保育園関係の皆さんにとっても、神経を使う日々が続いていると思う。この新しい分園の開設準備に関わってこられた方々には、大変なご労苦やご心配がおありであったことと想像する。こうやって無事に開園式ができることを、神様に心から感謝したい。
こういう中であるからこそ、今回開設させる分園が「りんごの木」と名づけられていることの意味の深さを思わずにおれない。とても良い名前がつけられたと思う。
「りんごの木」という命名をきいて、聖書との結びつきで連想したことは、ひとつは、申命記32章10節、神様がイスラエルを荒れ野で見出し、「これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」というところである。「御自分のひとみ」というのは英語の聖書で読むと、「the apple of his eye」。He guarded him as the apple of his eyeとなっている。私の教会の教会学校は、ここから取って「アップル」という名前である。神が御自分の瞳のように慈しんでくださる「りんご」である。
もう一つの連想は、一般にも知られている言葉であると思うが、「たとえ明日世の終わりが来るとしても、今日わたしは、りんごの木を植える」。
しばしば宗教改革者マルチン・ルターの言葉として紹介されるけれど、ルターが言ったという証拠は見当たらないようだ。しかし、誰か他の人が言ったにせよ、聖書の考え方からはずれている言葉ではないと思う。イエス様の弟子たちが、世の終わりについて「いつ来るのですか」としきりに尋ねた時、イエス様は、「その日、その時はだれも知らない」と言われた。そして「いつ終わりの時がきても良いように、今を生きなさい」という趣旨のことをいわれた。言い換えれば、一日一日を終わりの日として、今日なすべきことを落ち着いて、しっかりとなす、ということである。
だから今のように先行きの見えない、不安で浮ついてしまいそうになる時こそ、未来のために今なしておくべきことをしっかりやる。いつ終わりの時がくるかは神様がお決めになることで、わたしたちは神が未来を与えてくださると信じて今日を一所懸命に生きること。
だから、今わたしは、子どもの世代、孫の世代、あるいはその後の世代のために、りんごの木を植える。木を植える、ということは希望をもって生きる、ということの表現。
「私はりんごの木を植える」という表現から興味をもって、今回わたしは「木を植える」という表現を聖書の中で検索してみた。アブラハムがぎょりゅうの木を植えて神様を礼拝した、というような興味深い箇所も出てきたが、より重要なこととしては、象徴的な意味で「木を植える」という表現が用いられる時、それは神様の行為。神の民を起こす、という意味で木を植える、という。つまり、わたしたちが庭に木を植えるように、神は人間という木を植えてくださる。
礼拝のはじめ、招詞に、イザヤ書の預言の一節を読んだ。
「荒れ野に杉やアカシヤを、ミルトスやオリーブの木を植え
荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。」
この預言は、バビロン捕囚という、イスラエルにとって一度国が滅んだようなどん底状態の中で語られたものである。すっかり荒れ野になった大地が広がっている。しかしわたしは木を植える。そして再び緑でこの地が覆われるようになる。そこに鳥が巣をつくり、さえずりが生まれる。
この預言を、今ここに立てられる「りんごの木」にあてはまるとどうなるだろう。
今、わたしたちの国は大変な中にある、暗い雲が空を覆っている。でも神様は、そういう中でも、こどもたちというりんごの木を植えてくださる。良いものとして、未来に豊かな実をもたらす、りんごの木を、愛をもって一本一本植えてくださる。立派に育っって、豊かな実をつけるようにと、強い意志をもって、木を植えてくださる、ということではなかろうか。
その子どもたちを守り、育てるのが、保育園の仕事である。(英語で保育園はナースリー。木やお花の苗を栽培して販売するお店のこともナースリーという。保育園は、庭師的な仕事ともいえるのだろう。)
もちろん、こどもの養育に中心的な働きをするのは家庭だ。家庭でこどもたちに愛が注がれなければならない。しかし、保育園に託されるこどもたちにとって、保育園で過ごす時間はどれだけ長く、また重いことだろう。保育園で過ごす時間で、人間の根幹が作られるのである。ならば、その保育に携わる人々は、最高最大の愛と知恵とエネルギーを注いで、その業に携わらなければならない。
私は牧師として、問題を抱えて悩んでいる人の相談に乗る時、もっぱら大人の問題に関わっているわけだが、その問題の根っこに幼児期の不幸な生育環境が関係していることが多いと感じる。人との関係を健全に作ることができないという悩みをもった人の多くが、自分を健全に愛せないでいる。あるいは、自己愛がとても歪んでいる。その場合、幼い時に、全面的に安心させてくれる受容的な愛をもらえなかったようだ、と考えられるケースが多いようだ。乳幼児期に、自分は愛されている、守られているということが経験できないと、何十歳になっても、人との信頼関係を築くのに大変な苦労をするのである。そんなことから、私は、最近ますます保育園の働きの重要性を思わされている。
わたしたちがどのように、りんごの木を守り、育てるか。その模範はイエス様が示してくださっている。
イエス様の時代、こどもは「大人」でない、一人前でないという理由で、随分と邪険に扱われていた。権利など認められない。どうとでも扱ってよい存在だった。だから、イエス様の弟子たちも、当時の価値観にしたがって、こどもが接近するのを阻止しようとしたのである。「先生は忙しいのだ。こどもになど構っている暇はない」。
しかしイエス様は「とめてはならない」と言った。そして幼子を呼び寄せて、抱き上げて、そして祝福された。そして、まさにその小さな子が、神の国にはいること、つまり神の愛の支配の中におかれることを宣言された。
あなたは神に愛されている大切な存在だ。神の祝福を受けるべき子だ。
キリスト教信仰に基づいてたてられたナオミの会の保育園は、本園も、こひつじ保育園も、ぶどうの木もりんごの木も、こどもたちに、「祝福」を告げるところでなくてはならない。
祝福というのは聖書のもとの言葉でいうと、「良いこと+言う」である。
あなたは素晴らしい。あなたは良いものとして神様に造られた。そして、あなたを通して、良いものが、喜びが、命がうみだされていくように神様はあなたに恵みをそそぐ。それが祝福。
人は祝福されなければならない。豊かに祝福を伝えられなければならない。ことばを通して、行動を通して、ハグを通して、手をつなぐことを通して。
りんごの木を神が植えてくださる。祝福を注いで、その木を守り育てる働きが、ここでなされていきますように!
by boxy-diary
| 2011-04-14 23:46
| 行事